自由のコンテクスト

現代的人間の第一義は、人権。その人権が保障するものは、思想・信条・宗教の自由な個人である。職業やセックス・コンシャスも自由。生き方の自由ということは、具体的には自分で選べ、自分は何をどうしたいのか自分で決断決定実行しろということになる。その実行行為に至る主導権は個人に委ねられる(但し社会ルールを逸脱した行為結果は法律によって裁かれる)というのが、人権が理想とする自由なんだろう。んがっ、本来自由な個人であるハズの者たちが集合している都市は、様々な制度や慣習世間仕様やはたまた共感と思いやりによる支配関係=ゴールデンケージといった大なり小なりなかたちをとって予め細かく組織されていて、しかもそこに組み込まれるかたちでしか個人も生きられない。そこでは、主体的に選択してるつもりでも、社会・世間・学校・家庭から刷り込まれ「自由のメニュー」の中から選択させられているという逆転だったりもする。そしてそういう社会のお墨付きなメニューの中からでしか、社会の得点=特典=承認された個人を得られない(ものだ)と、おもい込まされるような状況にある。社会・世間のお墨付きメニューが常に規律目標として行動支配される共同体、ま、それを学校社会というんだろうけど。
その時の自分は、個人としてとして充足自由にあるわけではない。自分は他者との関係比較で自動反射的に存在が規定され続ける。そんな緊密な相互世間にあるかぎり、問題は<私>の充足自由よりも、自分と他者との境目となる。「あなたのいるところだけなにもない」id:hizzz:20080619#p1のように、他者のいう「あなた」が自分となるし、自分が「あなた」とイメージすることが「あなた」にとっての自己となる。ややこしいぐーるぐるな関係は、我々=「みんな」という集合に繋がり、それからすれば自分はその「みんな」の1チップとなる。みんなの1チップ=イメージされた「あなた」となったがみんなとの違いを感じるイメージされてない自分は、みんなの個人=イメージ規定されてる外見<個>と自分の中の人=隠れている未既定部分の中身<私>と、表面と内面の幅をもつ。イメージを返されて外見を意識しはじめて、初めて自分のそれとは違う内面が判る。そしてイメージをお互いに交換&調整しあってセルフイメージを模っていく。