孤島のロビンソン・クルーソーにとって、モードは存在しない

イメージ=認知されてる表層部分と隠れている内面部分とがあるのであれば、そういう仕方で他者・世間・社会が個人を量りにかけるのならば、その表層を変えてしまえばセルフイメージも変化するのでは。そこで人は外面を装う方法論を思い付く。まず、自分の表と内面、内と外の区分け、出すとこと隠すとこの「絶対領域」を厳格に規定する。いうまでもなく、そんな自他は表面・内面の区分けと連動したプロポーションを構成する。そして、同一ならば同じ意味をセルフイメージに持たせる衣装を纏うことによって、メッセージを発信する。あなたのわたし、わたしのあなたと。そうした交換の厳密なコード系が、「スタイル」。
そのスタイルが、わたしとあなたを次々繋いで我々=「みんな」という一定集合となり、その集合モデルの標準スタイルとして世間・社会に、一定集合体の媒介として流通認知=表象されたとき、それが「モード」となる。
たとえ同一スタイルをとっても、時や場所などのコンテクストが変われば、その意味は別のことに変化する。その時イケてるものは、未来はダサいものへ。制服には、学年ごとに違う裏校則。だからモードは、いつも均質・異質とか同一・差異といった両義性を孕みつつ、意味を纏っている。「人間は、自分自身を翻弄するようなある根源的ディスプロポーションのうちに組み入れられているのであって、それがたえずファッションを突き動かし、変化させている。」と、鷲田清一はいう。