女性は一人ひとりが、本質的にマイノリティ

「女おたく・腐女子の可視化騒動」については、myヨタでもいくつか言及してきたが、ワタクシもあまり使いたくない男女という区分けのアバウトすぎる原因を、男女のあり方についての居心地の悪さの感覚につての男女差ということで、よしながふみが語っている。

男の人の抑圧ポイントは一つなんですよ。「一人前になりなさい、女の人を養って家族を養っていけるちゃんとした立派な男の人になりなさい」っていう。だから男の人たちってみんなで固まって共闘できるんです。男は一つになれるんだけど、女の人が一つになれないっていうのは、一人ひとりが辛い部分っていうのがバラバラで違うんでお互い共感できないところがあると思います。生物学的な差では絶対にない。これは差別されてる側はみな一緒ですよね。アメリカにおいて、全部合わせれば白人より多いはずのマイノリティが文化が違うから一緒になれないのと同じです。

よしながふみ小説Wings』2006年冬号「ホモ漫、そして少女マンガを語りつくす」

おたくがデータベースにするほどに欲望というものが拡大&多様化しているのに比べて、男性の劣等感は「非モテ」「非コミュ」などの非所有に収斂されてしまう程度に単純になってしまっている。収斂されて意味がばらけないでその緊密な関係性の中であだこだ決着づけようとしているから、かえってそのことが重くなってしまって処理不能で破綻しているのではないだろうか。>言葉換えでの所有欲望の拡大=風呂敷を広げ過ぎた○○論壇ゲーム
例えば本屋へいけば、山のような女性ファッション誌が存在してるのにくらべて、ごく僅かしかない男性誌。単純なアイテム、例えばジーパンと背広とジャージ、こんな3つか4つで男たちの共同体人生をいなしていけてるってこと。それは空気のように自明であるということでもある。自明でないのはヘテロセクシズムにおける抑圧=家父長たれ。だから所属する集合体での当たり前であったモード=<個>に外れたと自覚してしまった、非所有者の落差感情は極端になるのであろう。
そのような構造だから、女おたくとして「やおい・BL・腐女子」などとマス的に趣味ジャンル分けされてても、それは「みんなの個人=イメージ規定されてる<個>」の部分ダケであって、「自分の中の人=隠れている未既定部分<私>」は違うのだから、ジャンル生態論でそうした女子をポジショニングして括ろうとしても、当事者たる個々の趣味人たちは決して承服しないのである。主体は希薄にして「愛」という関係性萌えだからである。つまり、同一性の可視化でなく、可視性の同一にあろうとする中身のコンテクストが違う者たちだからであろう。そのようなあり方をしている女性間であるから、近代的ヘテロセクシズムにおける抑圧を告発してきたフェミニズムもフェミ内でいくら細分化しようとも、女性の中のマイノリティな1ジャンルとなってしまっている現状となる。*1
男装・女装がイメージしている表象、男らしさ(観念・中身)/女らしさ(身体・外見)のヘテロセクシズムの意味あいに於いても、仮定された女性の異装=BLと男性の異装=百合はイーブンではない。「女装して女性と愛し合いたい」といったとき女装する前である自己は、どんな「わたし」はどんな「あなた」になるというのかそれともその逆どんな「あなた」がどんな「わたし」となれるというのか、それは観念〜実態の間のドコまでこのようなことが意識されているのだろうかが、ちとひっかかったのだ。。>id:hizzz:080627

「凌辱」ルネ・マグリッド
CHANELの商品カードには、下記の言葉が記されている。

ひとりの女、一つの名、一つの伝説

ココ・シャネル

・「現実の方がフェミニズムの先を行っているのは100%真実」という話
http://ideaflow.blog26.fc2.com/blog-entry-270.html
・不自由であることより、自由であることの枷を/よしながふみやおい論2
http://d.hatena.ne.jp/nin7nna/20060831/1156927994
・『愛すべき娘たち (Jets comics)よしながふみ
・『グロテスク桐野夏生 id:hizzz:20031010
・『「婚活」時代 山田昌弘白河桃子
・『20世紀破天荒セレブ―ありえないほど楽しい女の人生カタログ平山亜佐子
・『女子の国はいつも内戦 (14歳の世渡り術)辛酸なめ子
・『女女格差橘木俊詔
・『ジェンダー経済格差』川口章 id:hizzz:20080610

*1:例えば、性的身体の使用について賞賛or回避の2択以外のフェミ言説が生成されていないことは指摘。>萩野美穂『ジェンダー化される身体