近代への抵抗としての人文画

コミケといいつつも、まずは前回の追加説明から。
端的に「人文」とは古来中国では、儒学教養と詩文能力を試される人格のことを指す。「人文画」というジャンルの始まりは、賤しい職業画工でない詩情&人格ある「士人の画」かどうか、明朝末期に唐〜明期の画家たちを人文的かそうでないかという分類をしたことによる。それと当時に禅宗が唐代に南北に宗派が分かれた後、北宗が衰え南宗が栄えたことにより、人文画=南画と位置づけ、北宗的画家たちを排除したのである。
そんな人文画を、前回かいた通りフェノロサ岡倉天心たちは旧弊=江戸時代の形骸化した様式として厳しく断罪し、狩野芳崖・橋本雅邦・横山大観らの西洋方式を取り入れた「日本画」を擁護した。西洋画も含めてそれは「表現主義」とみなされるものであるが、西洋の流行画が進歩の光かがやく印象派から陰鬱な世紀末ウイーン的な情緒に移ってくるにつけて、その情緒を喚起させる精神へと関心がいく。そして自分たちの情緒精神の原点としての人文画を思い出す。そんなところに1911年の辛亥革命後、その社会混乱によって王宮に秘蔵されていた明・清の正統的書画が大量に流出し*1、日本でも南宋画展が催されかってない規模でそれら現物を観賞する機会が出来、社会的に人文画そのものへの関心が一挙に盛り上がったのである。
天心らによって東京美術学校教授に推挙された高村光雲*2の弟子の彫刻家・美術史家&批評家である大村西崖(1868〜1927)は1921年に訪中し、人文画家であり美術史家でもあった陳師曾(1876〜1923)と人文画の芸術性について意気投合した(師曾は8年日本留学してた)ことから『人文画の復興』1921年の構想に至ったという。
1901〜20年の人文画(南画)復権の背景を、日清・日露後の国際=西洋社会における近代国家日本としての位置確保による優越感という当時の時代の空気は無視できないと、陸偉榮は以下のようにいう。*3

日露戦争勝利後の日本は、「世界の一等国」としての自意識を確立していくなかで、「中国を含む『東洋』の文化を積極的に日本の歴史的文化的資産目録に組み入れようとする膨張主義的傾向へと変容した」といわれる。東洋的精神を強調する思潮の中で、南画は一転して「近代的」とされ、いまや日本美術の将来を担う文化資源ともされたわけである。

陸偉榮『中国の近代美術と日本―20世紀日中関係の一断面

「人文画とは何か。人文画とはすなわち画のなかに人文的な性質を帯び、文人の趣味も含まれる。画に芸術的工夫を追及せず、作品そのものではなく、作品の外から多く文人の感想が見られるようにせねばならぬ。」という陳師曾が定義した人文とは、「第一要人品、第二要学問、第三要情才、第四要思想」を重んじた教養人のことであり、そうした人たちによる「画に芸術的工夫を追及せぬ」作品には自ずと芸術的要素が表現されているという。さらにそれは西洋絵画と対立するものではなく、「人間の主観的精神や情趣を表すもの」であるとする。
あるイデオロギーの基に研鑽純化された精神&情趣、しかし技術的営為は拝するピュアなアマチュアリズム表現者なアタシ。作品そのものより、思想信条が保障する人格第一。理解するより感じろ!…いやぁ、実に、その方法論は、クリソツなあれやこれやそれが頭ぐ〜るぐるしてしょーがない人格なきワタクシ。あははは。。。

*1:呉昌碩ら、清朝王族貴族・遺臣が日本に亡命移住するなどして、清朝皇帝一族と日本皇室との間に浅からぬ関係が出来た。

*2:職人たる自分は教授するような学問をもちえないといったところ、ただ制作するプロセスを生徒に見せてくれればよいといわれたらしい。

*3:但し、当の西崖自身は「支那は日本の文化の本の国である」と中国賛美の姿勢