民国の趣味と生活漫画が担った、上海モダニズム

1920〜70年代上海という新興都市の大衆に「子緂漫画」名称で人気を博し、後に「中国漫画の鼻祖」といわれた豊子緂(1898〜1975)という人がいる。ただ、漫画といっても現在のようなストーリー・コマ形式とは異なり、イラスト画である。
中国絵画は、油画(西洋油絵)国画(中国伝統画)版画が存在したが、国画は清朝末期以降硬直・形式化していた。中国でも“meishu”という概念はなく、「美術」という日本経由での翻訳用語が定着されようとする途上であった。第一次大戦後の対華21ヶ条要求受諾という講和条約問題に端を発した愛国運動は、その弱体化の原因を旧来伝統文化にあると断罪した。そんな1910年代の新文化運動・五四運動の中核、陳独秀新青年』が「美術革命」1919年で、人文的伝統より西洋写実精神への転換を提唱し、西洋画ブームが中国に到来し以降、多くの美術学校が油画科を設立した。子緂はそんな中で文学・音楽・西洋画の教育を受けた後、小一年ほど日本に留学しているのであるが、随意に描いた絵=「漫画」という名称自体、日本から伝来したものだとも云われている。その当時、漫画といえば、報道的イラストと情緒的イラストと滑稽・風刺画の3タイプが存在していたのであるが、子緂のはごくありふれた日常を描くと共に古典詩詞にも題材を求め「詩画」とも自称した感性文学的なものであった。
丰子恺 - [净心随笔]
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それは竹久夢二の画風に強い影響を受けたもので、自らの随筆でも夢二に言及すること、度々であった。文学的感性にも秀で分筆家としても名高い子緂は、後年『源氏物語』の翻訳をするなど絵画と文学両方に重きをおいていたが、中国画は人文画で見るように古典文学的要素が高いが、一方西洋画の多くは(神話・宗教絵画を除いてしまえば)純粋絵画に徹する姿勢大。そんなことを抱えながら日本に来た子緂にとって大正ロマンあふれる夢二の世界は「深淵で幻術な人生の味わい」「声なき詩」「芸術と生活の接近」とばかりに、精神的・様式的に引き継がれた。
大正モダニズムとは、明治期の富国強兵・殖産興業=文化産業化政策の、一定の成果としての都市中産階級であり、かつ反動・対抗としての大正個人消費生活文化でもあり、日露戦争への関心から爆発的に発達したメディア(状況映画・出版)によってそれは加速された。
時期をずらして民国中期中国でも五四運動〜国民革命の成果は1930年代の上海に未曽有の繁栄をもたらした。ほぼ毎週のように家族とハイヤーでハリウッド映画を観賞していた「“反体制作家”魯迅が職業作家として中産階級の暮らしを享受していた事実は、1930年代上海で近代的市民社会が一部であるにせよ実現されつつあった」ことの現れだと藤井省三20世紀の中国文学』はいう。
響き合うテキスト―豊子緂と漱石、ハーン 西槇偉
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN3303.pdf
響き合うテキスト(三)異国の師の面影豊子緂の「林先生」と漱石の「クレイグ先生」、魯迅の「藤野先生」 西槇偉
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN3602.pdf
儒教のような中国伝統思想は、明治啓蒙知識人と同様に日本留学組&欧化知識人達により「悪しき伝統」として否定された。が、子緂はただ単に夢二を真似たのではなく、その伝統中国の中から迷信・因襲的要素を排除した近代的人道倫理として再生を図ったのである。
一部の特権知識でも即物的エログロでもない生活趣味、魯迅・巴金・林語堂という一世を風靡した作品を広める媒体となった出版メディアや新興中間市民層の趣味という都市文化は、こうした道すじで花開いたのである。>西槇偉『中国文人画家の近代
欧米近代化への対応を急速に進めなければならない必要に追い込まれた中国にとって日本は、「同文同種」でありながら「最も近い西洋」=日本化した西洋を摂取・改編するのが、最も経済的かつ合理的方法であった。中国人美術留学生を研究している中国藝術研究院の劉暁路は、「古代の日本を育てたのが古代中国であったとすれば、近代中国を育てたのは近代日本であったといえる。日清戦争以来、外国への留学生は日本が最も多く、その大半であった。魯迅先生の筆になる(「藤野先生」に登場する)上野の景色は、その迫真の描写である。近代中国の政界、財界、学界、文化界の要人は、ほぼ皆留学の経験がある。」「外国美術学校の中でも東京美術学校が最も多くの著名外国人を引き付け、留学の最盛期も最も早かった」という調査結果から「ここが名実ともに、中国近代美術の1つの揺藍となっている」という。
しかし、1949年新中国建国後の「最も近い西洋」は共産主義国ソ連にとって代わり、それまでの美術は中国伝統美術も含めて文革によって全否定され、ゼロからの出発となる。