民主主義の教科書となった動漫

現在の中国では、アニメとマンガのことを「動漫」と呼ぶ。共産主義思想的教養と機能構成主義的技巧を価値においた共産人文画は、社会主義リアリズムの再生産でしかなかった。そんなとこに日本でヒットした80年代以降のTVアニメやマンガは、台湾でドラマ化したり中国語海賊版として中華文化向けに加工されたものが、海賊版業者によって中国本土に持ち込まれた。80年代以降、中国もTVが普及しはじめ、画像を通して日本への親近感と異なる文明世界への憧れを抱いていったという。ではそこで、「崇洋媚外」として米国カウンターカルチャーのような政府による思想統制がなぜなされなかったのか。80年代以降の改革開放の経済発展で少しずつ余裕が出てきた中国人民は、消費娯楽のゆとりを持つようになった。が、政府提供のものはすべからく教育的指導にみちみちた画一的な社会主義リアリズム。政府の方からすれば、特定の政治思想もない子供向けな日本製サブカルはくだらないが、「たかが娯楽、たかが動漫、若者は変に政治意識が高くなるより、漫画やアニメにうつつをぬかしてもらったほうが、国家が安定する。そして大人は金儲けに現を抜かしてくれていた方が、社会不満を政治にむけてこない」として消極的に容認したと遠藤誉『中国動漫新人類』はいう。そしてその一見すると思想性政治性のなさこそが、自分の感性で好きな動漫を選び「愛」「友情」「おしゃれ」「多様性」「かわいい」といったその価値世界に浸る行為プロセスをもって、結果的に「思想性」を生み「政治性」へとつながっていく潜在力となったと分析する。そしてその個人的精神価値こそが、天安門事件以上の民主化へのステップとなったと結論づける。
と同時に、90年代に江沢民政権下で推し進められた愛国政策による反日感情愛国無罪」は、こうした動漫萌と裏表の関係であるともいう。政府首脳も含めて民衆個々すべからく「売国奴と罵られないかどうか」文革の粛清運動からくる「大地のトラウマ」という深層心理から来ているとする。

主文化は「トップダウン」で民衆に与えられ、次文化(サブカルチャー)は「ボトムアップ」のかたちで世論を形成していく。二つの文化のベクトルはまったく逆を向いているわけだ。しかも民衆の立場にたてば、主文化と次文化は地続きでなく独立して存在している。それぞれを消費するにあたっては、心の中で「スイッチの切り替え」が必要となる。
反日感情と日本動漫への思いにおける中国の若者の心のダブルスタンダードは、「主文化」と「次文化」の相克である。
ゆえに、反日だけでなく反米もあれば、反体制だってある。だからこそ、中国政府はその首謀者(愛国無罪)を反日デモの際に逮捕した。反日だから逮捕したというのではなく、国のトップダウンの意思とは無関係に政治行動を行ったこと、彼らの運動がボトムアップで盛り上がったことを政府は問題視したのである。
あの反日暴動の首謀者が逮捕されると、…誰もが「私は関係ありません」という顔をし始めた。…彼らでもで暴れまわった者たちは、「愛国無罪」という、あたかも主文化領域にいるような顔をしてその衣をまとっていたが、その化けの皮が剥がれたので、いきなりおとなしく次文化領域に戻って鳴りを潜めたのである。

遠藤誉『中国動漫新人類 日本のアニメと漫画が中国を動かす

この2005年の反日デモの発信元は、サンフランシスコで中国政府に民主化促進を訴える台湾系人権擁護団体であったという。台湾と大陸との仲間意識を共有させるツールとしての「抗日戦争の記憶」である。インターネット内の「憤青」と呼ばれる愛国民族主義者たちが媒介となり、中国大陸の若者を煽動した。「声が大きい者が、より革命的」で声の小さな者は「非革命的である」という群集心理表現が、まんまベタにインターネット内で中華民族社会相手に展開されたのであった。
それならば、日中台(韓国も含めて)の仲間意識を共有させるツールとしてアニメ・漫画繋がりという、ボトムアップでの相互活動が可能なハズではあるのだが、衰退の兆しが見える日本のアニメ・漫画やタコ壺づくりに腐心する文芸批評家さんたちは、こうした異文化からの闘魂注入を受容して、活性化出来るのであろうか。。。
漫画同人誌:中国発「萌え」日本で展示直訴 コミケ参加も
http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20080814mog00m200029000c.html