近代が取りこぼした「民族」

聖火妨害騒ぎは一体なんだったのか?日本でもあれだけ騒いでいたハズなのに、北京五輪開催反対って声や行動はすっかりないみたいだしな。とまれ「フリーチベット」にかこつけて優越感で中国をせせら笑っている立場ではないのだ、日本は。てゆーか、チベットはおろか中国の歴史・情勢についてすらロクに把握しようとせずに(自己立ち位置の無謬性は担保したまま)、「フリーチベット」いう正義なアタシを表すという内向きなノリによる国際連帯幻想は、牧歌的というより幼稚で最悪だろう。*1
竹内好によれば、日本文学は民族という思考を排除することで近代主義としたが、それは白樺派=日本ロマン派の抽象的自由人という設定の文学上の可能性が開けて以降だという。しかしそれはかって人文画ジャンルが北宋を退けたように表面学問・文壇上から排除されたダケで、土着思考は実際上無くなったわけではなく反撥の機会をねらいつつ、意識として生息しつづけていたのである。

マルクス主義者を含めての近代主義者たちは、血塗られた民族主義をよけて通った。自分を被害者として規定し、ナショナリズムのウルトラ化を自己の責任外の出来事とした。
(日本ロマン派を)外の力によって倒されたものを、自分が倒したように、自分の力を過信したことはなかっただろうか。それによって悪夢は忘れられたからもしれないが、血は洗い清められなかったのではないか。

竹内好近代主義と民族の問題」『竹内好セレクションI 日本への/からのまなざし


戦後の近代主義の復活はそんな日本ロマン主義のアンチテーゼであり、その戦後近代主義のアンチが、今日のポストモダンという系譜をたどる。ということで、「近代主義」を又にして日本ロマン主義と今日的ポストモダンは手を結ぶ。やれやれ。
無論、過去ファシズムが抑圧された民族意識をウルトラナショナリズムにまでして政治利用したことへの弾劾は必要だが、そこでウルトラな部分だけを抜きだして弾劾することも無意味。かといってそれによって素朴なナショナリズム心情まで制圧してしまうこともよくない。上記にみられるように中国のそれは社会革命と緊密に結びついているが、かっての日本の見捨てられた戦前ナショナリズム帝国主義と結びついてウルトラ化するしか道がなかった。その民族ナショナリズムを社会的にどう軟着陸させて担保していくかという難問に対峙せずに、ナショナリズム=帝国侵略主義=排除と墨塗りして(戦後民主主義)知らぬ存ぜぬ(80年代ポストモダン)といってしまったつけが、現前として日本にも溜まってるいたのである。んで、冷戦終結後の90年代の世界の見直しで、多様性・エスニシティの蓋を開けたら、忘れたことにしてたそれがわらわらと飛び出してきた。>靖国慰安婦問題*2

文学の創造の根元によこたわる暗いひろがりを、隈なく照らし出すためには、ただ一つの照明だけでは不十分であろう。その不十分さを無視したところに、日本のプロレタリア文学の失敗があった。そしてその失敗を強行させたところに、日本の構造的欠陥があったと考える。人間を抽象的自由人なり階級人なりと規定することは、それ自体は、段階的に必要な操作であるが、それが具体的な完き人間像との関連を絶たれて、あたかもそれだけで完全な人間であるかのように自己主張をやりだす急性さから、日本の近代文学のあらゆる流派とともにプロレタリア文学も免れていなかった。一切をすくい取らねばならぬ文学の本来の役割を忘れて、部分をもって全体を掩おうとした。見捨てられた暗い片隅から、全き人間性の回復を求める苦痛の叫び声が起こるのは当然といわねばならない。

「ただ一つの照明」自己萌ジャンルへと閉じこもるおたく・サブカル(含む右・左翼)、そして「○○論壇」などという断片的な場をもって永遠の80年代「抽象的自由人」だとするその仕掛けっぷりは、「具体的な完き人間像との関連を絶たれて、あたかもそれだけで完全な人間であるかのように自己主張をやりだす急性さ」そのものではないのか。永遠の祝祭で戯れてそれで良しとしてるその道の延長は、また「いつかきた道」*3となりはしないだろうか。もそっと、知恵はないんだろーか?

*1:政治的に右翼・左翼と自己規定して運動していても、断片化したトピックのみを論拠としている者が多い。これも学校教科ポストモダン=受験科目分断・高校未修履問題という80年代ならではの特徴なのだろうか。。。

*2:左翼は「靖国民族宗教的存在を無効にしようとし、右翼は「従軍慰安婦」第3の性的民族存在を無効としようとした。このように対極に押し付けようとした方法論は、どちらも排除の論理でしかない片務性を帯びている。いっておくが「民族」概念枠は「国家」と同様に近代以降のもの。

*3:従来サブカル・エリート&ブルジョワ層と、永遠の祝祭に参加できない貧困によりサブカル楽園の欺瞞を喪失感として心的障害にうずく者との、部分・断片となった声の大きい=ポピュラリティな両極が結びつくことで、祝祭存続の為に「サブカルの欺瞞」を「社会全体の欺瞞」にすりかえ、その他多数の微細なオルタ可能性を凌駕・駆逐する「完き人間像」として社会像となりかわる、全体(国家)社会主義