劣化する運動、硬直していく取締

10月26日、渋谷での労働組合企画イベントで3名が逮捕された。
TBSニュース報道
http://jp.youtube.com/watch?v=_lDLdIRTRRA

このリアリティツアーは、格差社会の頂点の様子をのぞきにいくという企画で、フリーター全般労働組合が企画したもの。
今回の第二回ツアーは、反戦と抵抗のフェスタのプレイベントとして企画されたもので、渋谷駅前に集合したのち、渋谷の駅から歩いて行ける距離にあるという、敷地だけでも62億円するという、麻生首相のお宅を見学にいこうという、なんとも「のどかな」企画です。
「これは無許可のデモなので、横断幕やプラカードはダメだ」ということを集まってきた警察が言い出したので、愉快な横断幕や風船などはとりあえず降ろして、特に騒ぐこともなく、ブラカードや看板なども手に持って、5人くらいの列になって、ぼちぼちと出発しました。

「麻生さんのおうちを見にいこう」のどかな企画に警察暴力―関係者に聞いた現場の真実−JanJanニュース
http://www.news.janjan.jp/living/0810/0810270277/1.php

渋谷署警察官との事前打ち合わせ@ハチ公前
http://jp.youtube.com/watch?v=VukCiIa0BDc&feature=related
参加者レポート
http://jp.youtube.com/watch?v=3Uw701vV15U

主要マスコミ報道では「無届けデモ行進」が逮捕の大きな原因とされている。そうすると当然このイベがデモで有るか否かのハナシとなる。当事者達は、「デモ」ではなく皆で「のどか」に歩いて麻生邸にむかっていただけで、しかも警察の言うとおりに「横断幕やプラカード」はしまったから、報道も事実ではないということらしい。そしてネット上では、「デモ」か「歩き」かで正当性が問われる妙な展開に。
表現主義者としては、「それ」をどう表現するのかに心血をそそいできたんだよな。>「デモ」「パレード」「路上パーティ」「ストリートパーティ」「ストリートレイヴ」「フェスタ」etc... しかし、これは全然ことの本質ではない。それが「デモ」か「歩き」かなんて、結局、単なる言葉上の思弁遊びでしかなかったからだ。

イベントが「デモ」だったか「ただ歩くこと」だったかを区別することにあまり意味はありません。
「デモ」とはすなわち「ただ歩くこと」でありうるし、「ただ歩くこと」から「デモ」は発生しえます。まさにその未分化であるところが、「デモ」という政治運動において決定的に重要だと思います。
「デモ」は「ただ歩くこと」ではないとみなされる社会は恐ろしい社会です。逆に「ただ歩くこと」が「デモ」ではないとみなされる社会も恐ろしい社会です。

「デモ」と「ただ歩くこと」過ぎ去ろうとしない過去
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081027/p1

現に、2006年高円寺ニート組合が警官を引連れて3名が高円寺を散歩した届出デモという事例がある。このときは、だらだら歩く3名は「もっとまじめにやれ」と警察官に叱られたという。
http://www.youtube.com/watch?v=-5NXX5zs5k4
事の背景には、同年秋葉原での「自由と生存のメーデー06」届出デモでの圧倒的な警察包囲の末に3名が逮捕されたことが前提での風刺行為なのではあるが、それ故に、前例を必ず踏襲する官組織相手には、こういう手は1回しか有効でない。

ところが、上記引用したJANJANもそうであるが当事件を擁護する側は、このイベントはあくまでも「のどか」に「おとなしく」「歩いていた」だけの「どこまでが参加者で、どこまでが通行人かもわからない状態」のところを押し倒されたという。きっと参加者のその時の感じはそうなのだろう。だがそれはあくまでも一瞬の状況の断片感情でしかない。なぜなら明確な政治目的が彼らにあり、前にも後にもそれを掲げているからだ。
そもそも「麻生さんのおうちを見にいこう」という「リアリティ・ツアー」は、フリーター全般労働組合が企画し「反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2008──責任者出てこい。これはヤツらの戦争だ。」の名称の基に行われた。フリーター全般労働組合は、22日に麻生太郎に団体交渉を申し入れている。そして当日現場でも当初その団交申入書のプラカードを掲げていたという。

フリーター全般労働組合は、10月26日、渋谷で、反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉2008のプレ企画であるイベント、麻生太郎邸拝見「リアリティ・ツアー」に麻生太郎首相への団体交渉申し入れ書を携えて参加しました。
この「ツアー」、社会の「貧困」「格差」を解決すべき人物が、私たちとどれだけかけ離れた暮らしをしているのかをこの目で見て実感する、誰もが歩くことができる公道を、渋谷駅頭から麻生邸の前まで歩きながら、その土地だけで62億ともいわれる豪邸をくっきり目に焼き付けて帰る、という趣旨のものでした。
金持ちが優遇され、それ以外の人たちの生活がどんどん不安定にさせられるなかで、格差社会の頂上にいて、莫大な資産を持ち、私たちとかけ離れた「金銭感覚」を持つ麻生首相に、直接、私たちの置かれている格差と貧困の問題を説明し、政策の変更を訴えよう。私たちはそう考えながら、渋谷駅から麻生邸に向けて歩道をゆっくり移動していました。拡声器も使わず、隣の参加者と肉声で談笑しながら。参加者はおよそ50人ほどでした。

フリーター全般労組執行委声明 不当逮捕への抗議と62億円の豪邸の持ち主への要求」麻生でてこい救援ブログ
http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/blog-entry-2.html

あらためて記されている内容は、どー読んでも政治威嚇活動そのものであろう。それをいくら「のどか」とか「愉快」とか「見学ツアー」というような形容詞でくるんでみせても、政治活動であることには変わりはない。逆にそのような「遊び」で内輪受けを狙っているにもかかわらず、群れ集って豪邸を見ることこそが「リアリティ」というなんという今日的空虚を表して余りあることか!しかも、当の麻生太郎秋葉原で就任初演説することが金曜日位から報道されていたにもかかわらず、そこにはまったくスルーの無風状態。演説時は活動家皆様渋谷署前で抗議活動中。そのお陰か、つつがなく秋葉原演説は終わった模様。なんで秋葉原に行かなかった?大勢のマスコミ各社も中継構えてるその眼前に申立書のプラカードを突然ひらげたら効果大なのに。
無論、それがまごうかたなき政治威嚇活動であっても、それを即、逮捕事由とするのは警察の傲慢、いや粗暴ですらある。堂々と政治威嚇活動としてデモをすれば良かったのに、妙な小理屈で捻りを入れようとしたが、一連のデモと同様の政治行為と断定され通じなかったのに、なおもその小理屈を全面主張してる内輪なところが、もひとつ腰が定まらない欺瞞的態度に見えるのだ。だいたい公安・警察の情報網でなくとも、主要メンツは「いつもの連中」だってバレバレなんだし。
なんにせよ組織のメンツを潰す程愉快爽快なことはないということは、メンツを潰される程容赦なくなる作用反作用である。遅ればせながら立ち上がった救援ブログもかなり「煽り」すぎである。ここぞとばかりに血沸き肉おどって「官憲の横暴」をいいたてイキイキしている者たちもちらほらみかけるのであるが、目の前に吊られたエサをよく見て考えてほしい。何度も書いているが、一体全体フリーターや貧乏人の抵抗すべき真の敵は、公安・警察なのであろうか?もうはや、そうやって官憲と遊んでる余裕は、貧乏人にはいよいよなくなってきたんだけど。。。>id:hizzz:20080610
経過もロクに記されていない「京品ホテル自主営業中!」Blogの乏しいコンテンツに比べて、「麻生でてこい救援ブログ」の力の入れようの差は歴然。「労働組合」と名乗っていても、実際の労働問題解決よりも抽象的パフォーマンスに力点が置かれていることは否めない。お遊びイベをするなとまではいわないがしかし、調査・分析をしてあらゆる方策を練り込んだ連帯によるフレキシブルな和解よりも対決(=決裂)闘争に関心を高めることで結集するという、そゆリアリティの在り方、そゆことでしか得ようとしないリアリティの捉え方、オレ達が楽しめればそれでいい的一次的高揚の共感ばかりを求めて事象を消費してしまう内輪なノリでのいけいけどんどんは、結局、運動の首を自らで絞めてしまうことになりはしないか?

(反戦と抵抗のフェスタについて)
こういう時ほど続々と集まってくるフリーター労組の知り合いたちと、その楽しそうな交流トークを見て、ああこのぶっとび労組に参加してて良かった!!と思うとともに、「ああ、このクニには“大人”が心底から爆発できる場所が無くて、いつもそれを押さえつけられながら生きてるんだよね」とあらためて思った。そうして色んな人が死にそうになってる。仲間とバカやるのは高校大学で終わり、みたいなさ(今はそれすらも減ってる)。そんなことはないのさ。ぼくはおとといの気流舎読書会で、「アルゼンチンは、90年代に経済がぶっこわれたときに、労働者が工場を乗っ取って自分たちでまわしていく“連帯経済”“自主生産・自主管理”を始めてオルタナティブをつくりだした。それは地域や人間関係にまだ昔のようなつながりが残ってたからだと思う。じゃあそれがズタズタにされて他者不信と自己嫌悪だらけのこのクニでどうやったらできるの? が日本でぼくらがやるとしたらのテーマだと思う」って話した。そう、まさにこれからなのさ。

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京品ホテル自主営業応援について)
今日は夜10時からF労会議をしました。むーん、今日もすごい人が集まりました。どんどん人が増えていくんですが…(@_@)女子部屋では修学旅行の好きな人告白大会的になっていて・・・ロックアウトって人間関係が深まりますねw

上記はとても率直な感想を綴った運動界隈の2〜30代ブロガー達である。息苦しい世の中を憂える、まさに「善良」な人々でもある。なかまがつどって仲良くなり希望に燃える、それのなにが悪い。社会問題をテーマにしておきながら、肝心の社会性というものが欠落したまま、社会を語るアタシ=拡大する社会と自己完結してるのが問題なのである。たしかに世知辛い砂を噛むような人生の中でのそのような経験は、確かにほっとするあったかく尊いものではある。だがしかし、同質関係性の連帯をいくら求めても、他者間をまたぐ問題は厳然として解消されぬどころか自他反動作用で強化されうる。あなたやワタクシが内輪でいくら社会を憂いたところで、社会は知らぬ存ぜぬ微動だにしない。「テーマ」をどう叫ぶかの思弁=表現主義では、問題は一向に解決しない。だからこその現実に踏み込んでの労働組合結成だったのではないか?
他者不信と自己嫌悪だらけな中で、自己承認を求め抽象的な絶対正当性に同一化したり、個人の秘め事をカミングアウトしあうことが人間関係が深まると考えられるような、自他融解する相互捕縛関係しかないこと=同一感性関係性でしか連帯出来ない(と思い込んでいる)ことこそが、次々具体的な事象をつきつけられる世の中で活きづらくなり、第三者の可能性=オルタナティヴを喪失し、他者異者とのコラボレーションに失敗しつづけている一因なのではないだろうか。無論それは、「運動界隈」だけでなく、こうした「運動にみつけたアタシ」というのを胡散臭く思っている者も、実はまったく同じメンタリティであるからこそ脊髄反射で反目しあうという、アイデンティティ政治のなれの果ての劣化現象が進んで、本来解決すべき問題はほかされたまんま債務夥多。なんだかなー。