モラルとルールの恣意的混同

「戦略・手法とその展開に伴う効果の如何は抵抗それ自体の正当性を否定する根拠にはなり得ない 」とid:gnarlyさんがはてブでコメントしてくれているが、正当化論については以前書いたとおりid:hizzz:20060103、「目的は手段を正当化しないし、その逆の手段も目的を正当化しない」という大原則があり、「抵抗」でなんであれ主義主張というもの、ひとつの思想・理念を基軸とした正当・正統性行動といわれるものは、それに意を同一にしない他者・異者にとっては片務性をおびているものなのである。
広義の他者にとっては「デモ」か「散歩ツアー」かという意味づけが意味をなさないのと同等に、それは狭義的な「教義」問題であるからだ。主義主張内容が主義思想的に正しいかどうかという1つのモラル判断を、多種多様な主義主張者を成員として構成されているハズの民主主義は問題とはしない。だからこそ、思想信条・表現・集会の自由の合意が担保されるのである。>id:hizzz:20040411
そこで「抵抗思想」=モラル・アイデンティティを共有しない広義の間柄=社会にとって唯一の共通事項である手段=ルールが何故たびたび問題視されるかというと、民主主義の根幹は合意形成の手段=手続きを重視する制度であるからだ。その判断行為は最低限の共通合意事項=社会的ルール=法律を順守し他者を脅かさない行為であったか否か。>id:hizzz:20040424
また、狭義的には、その手段は目的を達成するに十全であったか否かを厳しく評価し、常に次の行動に反映してよりよい達成手段構築の礎となすべきであろう。しかし、お手盛りのあまい評価や、やりっぱな事象消費状態は、情報収集と対処スキルを蓄積し防備を固める会社組織や官僚組織への実のある「抵抗」となりうるのか?客観的な第三者の視点分析はどこに存在してるのか?ということは、ワタクシ一番問いたこと。

社会運動系の人たちは、参加させろと要求する側の自意識ばかりで、自分たち自身が「参加させる側」としてどういう体質を持っているかを分析しない(ひたすら歓待することは分析ではない)。 自分たち自身が、他者にとっての《環境》であることに気づくこと*2。 その意味での当事者意識を持つこと。

「存在する」ことは、「属する」こと
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20080823#p1

無論、手続き主義が行き過ぎると、前例を重視する官僚主義となり、立法=手続遂行を担う官僚組織が、前例を拡大解釈した慣例でもって「行政指導」なる胸先三寸行政をやりだす。今回、そんな官僚組織の一部である警察組織も又、自己裁量の幅でもってなされた逮捕・拘束監禁等の権力行使が妥当であったか否かは、民主主義的に厳しく問責されうる点ではあるのはいうまでもない。が、だからといって「戦略・手法とその展開に伴う効果の如何」が不問になる訳では決してない。運動行為責任と社会承認は表裏一体のものだからである。その表裏一体を無視して、ハイコンテキストなアイデンティティ政治が拡大しすぎ共感が表現主義を伴ってコミュニケーション全面に出だして、ローコンテキストな応答可能性=対話が遠のいたから、共感という「狭義の前提」を共有できえない他者・異者で構成されている社会承認もまた、遠のいたのではないだろうか。>現実と乖離して思弁浮遊する思想運動→今北産業&ワンフレーズ・ポリテックスへの左右集結 id:hizzz:20080213#p4、id:hizzz:20070109