聖(ひじり)と権力

前回id:hizzz:20081028政治運動のハナシでのid:muchonovさんのコメント

「常にトータルな一貫性をベースとした上での個々の表現活動といったバランスで構成するマネジメントとメディア戦略」についてですが、これってL=Sが批判的にとらえていたエンジニアの思考そのものだと思うんですよね。「L=Sも批判してるから一貫性なくてOK」と言いたいわけではないのですが、せっかくL=Sに言及されているのですから、おそらくエンジニアの思考の枠組では否定的にしか了解されないはずの野生の思考やTAZの痕跡をこの一連の出来事のなかに見出して肯定的にとらえかえしてみるほうが、知的な生産性があったりするのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/comment?date=20081028#c

ここで出てきた「野生の思考やTAZ」というのは、レヴィ=ストロース野生の思考』、ハキム・ベイ『T.A.Z.―一時的自律ゾーン (Collection Impact)*1を指しているんだと思うが、ワタクシのいうマネジメントは、id:muchonovさんが仰るかぎりなくノイズを排除した整然としたコマンドラインみたいなことを言っているのではない。ま、これだけだらだら書いてこれに言及しているのでもう判ってらっしゃるとは思うが、もう少し補足する。
構造的思考(文明・理性・整然)と芸術(自然・情緒・混乱)を二項対立させて、「野生の思考やTAZの痕跡をこの一連の出来事のなかに見出して肯定的にとらえかえしてみる」という一方に片寄った方法を斥力として重視する方法論こそが、反近代を意識した「所有と実存」闘争という近代思考なのである。そのルーツは現象を秩序=神と無秩序=悪魔に分けて無秩序をどう排除するのかというキリスト教から来ているものだ。それはスピリチュアル前世占いやエコロジー疑似科学歴史修正主義といった土壌となっている。それは復古創生をとなえる右派だけではなく、反文明・反グロバリゼーションンという近代反動運動で右と左のこうした発想土壌・着目点・美学は全く同一のものであるのだ。>id:hizzz:20080110 で、返答コメントで書いたとおり、現代はその二項は対立しないという前提に立った「多様性/多文化」をどう共生させていくかの問題となっている。>国連開発計画『人間開発報告書id:hizzz:20061005#p4 企業マネジメントさえCSRで「ダイバーシティ(Diversity & Inclusion)」が概念として論理化されてる位である(それが女性活用に矮小化されてるケースも多々あるが)。id:hizzz:20080528#p3
芸術行為としても、現代アートでもコンセプチュアルというジャンルが成立してる位、構造的思考と芸術・芸能は決して二項対立ではない。よく言われる「感情のおもむくままに」ということは、創作者にとってはたんなる形容詞かファンタジーでしかない。どのような情感をテーマとしたものであっても、むしろ何らかの一貫した構造的思考がないとそもそも作品(=感情構成の再構築)が出来上がらない。身近でコマーシャルなTV番組でも、アイドル・役者のバラエティ進出、お笑いに於ける素人参加、クイズに於けるおバカ芸...と、異形を取り込んで昇華するのは大昔から芸能の本質である*2。そもそも日本やアジアには異形存在が神格化した究極的概念は「聖(ひじり)」といわれて古くからあった。>『日本霊異記』、『日本の聖と賤(中世篇)(近世篇)(近代篇)』野間宏
そして現代の聖として7〜80年代ポモ知識人達がのきなみヤケドを負ったのが、サブカルと反動を融合し「一時的自律ゾーン」を形成した麻原彰晃オウム真理教の忖度関係での場当たり自由なポア暴走ではなかっただろうか?>『狂気と王権井上章一

*1:全訳>http://www.netarts.org/taz_web/contents.html

*2:その多くが使い捨てで見られるように、残酷な行為でもある