斥力を利用した権力、ヒエラルキーの中抜き

そんなに無理を捻じ曲げてでも接続させたかった、南朝・吉野とはいったいどのようなコトだったのであろうか?
日本の歴史の特異なトコは、常に実質支配と名目支配が常に分化し、実質支配権力が自らを保証するというカタチをとることがなかったのであるがid:hizzz:20050510、そんな史上きわめて異例な天皇が、一次的に名実支配を遂げ後の南北動乱の火種をこさえた後醍醐天皇だ。その異常な性格、マキャベリスト・独裁・謀略的で不撓不屈さや、建武新政の特異さをもってして、網野善彦は「異形の王権」と呼ぶ。
異形が何故、民衆に人気があり武士が忠臣の美学として擬えるのか。まず、それまでの既成事実を観念的に否定し出自序列を無視した実力主義による人事を図ったことである。王朝国家の体制として定着していた「官司請負制のオール否定」、官位相当性と家格の秩序の破壊、「職の体系」の全面的な否定であり、古代以来の議政官会議―太政官の公卿の合議体を解体し「個別執行機関の総体を天皇の直接掌握に入れること」を「最も基本的な改革目標」としていた。まさに、下剋上天下統一や倒幕志士の美意識にぴったりハマる改革目標!規制秩序をひっくり返し世界を変えて見せるという、この上ない一大スペクタクルに下々もわくわく(但しトップを牛耳るのは、独裁天皇なんだけど)。
きっかけの後嵯峨天皇の死後に始まった大覚寺統後醍醐天皇)と持明院統花園天皇)の抗争が荘園・公領に及んで下は百姓名主職から本家職にまで至ったのは、貨幣の流通による秩序価値の流動化、王朝支配体制の職の体系そのものの揺らぎからであった。その職は天皇職に迄及ぶ。商工民を内裏に引き入れ無礼講宴会でバサラと臨席した後醍醐天皇は、異界で蠢く非人や悪党といったアウトサイダーやセックスを模す密教呪法や律僧といった者達のプリミティブなエネルギーを吸い上げ、再度の挫折を乗り越え、新たなる天皇専制体系の樹立を目論んだのである。
だが権力の座を得た後醍醐天皇のそれまで登用してきた者を切り捨てた親政に、反目した足利尊氏が最終的に持明院統光明天皇を即位させて北朝成立。が、一旦は尊氏と和解し「三種の神器」を北朝に渡した後醍醐天皇が、渡した神器は偽物で持ってる自分こそが正統と吉野朝廷宣言したことが、その後の60年余りの南北朝動乱のトリガーとなる。

非人の軍事力としての動員とこうした祈祷、「異類」の僧正への傾倒と「異形の輩」の内裏への出入。…この時期、非人はなお差別の枠に押し込められ「周縁」に追いやられ切ってはいないと私は考えるが、その方向に向かう力は強く働いていた。
「性」についても、『天狗草紙』や『野守鏡』などの禅律僧に対する烈しい罵倒を通して、われわれはそれを暗闇に押し込めようとする野性的な反発も、またきわめて強大であった。後醍醐はそうした反発力を王権の強化のために最大限に利用し、社会と人間の奥底にひそむ力を表に引き出すことによってその立場を保とうとしたのである。
「異形の王権」は社会に根を下すことができず、「異形」のまま、その短い生命を終えた。しかしこの短命な政府の出現が日本列島の社会に与えた衝撃は、決して小さいものではなかったのである。それは間違いなく日本の社会の暗部に突きささるものをもっていた。

異形の王権網野善彦

皇国史観南朝を起点とし、神国スピリチュアルの多くが吉野を聖地とするのは、この正統系から外れた後醍醐天皇の政権執着の軌跡がもたらす異形斥力の「歴史や神話は自らの手で創造し直す」パワフルな魅力が、砂を噛むような日常で浮遊・漂白する感性をゆさぶることから来ているに違いない。