皇国史観のルーツ

近代以降の日本主義についてはid:hizzz:20080401に書いたけど、もすこし歴史を逆走して偽史創生のルーツをさぐってみる。
id:hizzz:20080401#p2では端折ってしまったのだが、明治期にも一大歴史教科書論争があった。「南北朝正閏論」明治44年南朝正統に歴史教科書が書き換えられた。近代法憲政下で、今更なんでそんな600年前のことが問題となったのであろうか。
南朝正統説は北畠親房らによって唱えられた。『太平記』『梅松論』は北朝正統を採っているが、前に書いた通り水戸の徳川光圀の『大日本史』は南朝派でありid:hizzz:20050611、それで発展した国学南朝派であった。そんな江戸時代に培われた「草本」や講談などで民衆には楠木正成新田義貞等の南朝側忠臣の人気が高かった。んが、室町・江戸期の宮中はずっと北朝系。初期の欧化主義が退行して日本を意識強調し出した頃、この南北期と万世一系天皇制のつじつまをどう合わせるかが大問題となったのである。あらましは↑のリンク先で見てもらいたいが、現在から考えれば北朝系が続いているんだから並立で済ませればいーじゃんとドライに思うんだが、南朝系統にこだわる大きな問題が天皇系譜の正統性の他にもうひとつあった。
それはそんな天皇を推し抱く忠臣=薩長の正当性である。『教育勅語』が説く「長幼の序」と照らし合わせても、他藩を差し置いて政権を牛耳っている薩長をどう正当づけるか。北朝系統下の徳川幕府を倒幕して明治憲政をにぎった薩長は、南北朝を収拾した北朝系統下の足利「幕府」に自分たちを擬えることはさすがに無理がある。尊攘の志士たちは、自分たちを幕府に抵抗する南朝忠臣になぞらえ、それを美学としていた。統幕主体者たる薩長とて美意識の上では、江戸以来の武士忠臣伝説に沿う南朝国学史観は南朝、世論も南朝、だけど頂く今上は歴然たる北朝系統の捩れっぷり。とはいえ、同じ南朝派でも少しづつ立ち位置によって、三種の神器派、水戸国史派など歴史観や道徳教育観や国家観の違いにより史観内容が異なっていた。そこでまた、喧々諤々。北朝・南北並立派は史実にもとづく歴史学者達であったが、南朝派は歴史学者のほかに文学哲学や法学や教育者などが参戦し、史実の正しさよりも国民道徳としての正しさを重視した。

信ずるということは、諸君が諸君流に信ずることです。知るということは、万人の如く知ることです。人間にはこの二つの道があるのです。知るということはいつでも学問的に知ることです。僕は知っても、諸君は知らない、そんな知り方をしてはいけない。しかし、信ずるのは僕が信ずるのであって、諸君の信ずるところとは違うのです。

小林秀雄「信ずることは知ること」

んなこといってもだな、いくら自分が「正しい」と思って行動しても、その「正しい」の根拠となる歴史なりモラルなりのそのものが、あらかじめある一定の片務性を帯びて方向性を決定づけられるからこその「正しさ」なれば、一体全体その「正しさ」をどうやって第三者的に検証提示出来得るというのであろうか。んな個人の中の思いを放たれた確証のとれない信仰的「正しさ」は、他人を呑み込みやがて制御不能な絶対正義へと浮遊してく。
大体、立場で違ってくる「歴史観」「歴史解釈」というのは、思想・文学であって歴史解明という歴史学問ではない。しかし儒学漢籍以来の人文的価値を最上とする近代知識人にとって、実証学問は格下の実務としか捉えられなかった。>id:hizzz:20080816 その意識の中で、『教育勅語』教育=道徳とがっちりむすびついた教育観でもって歴史教育を鑑みれば、事実とつじつまが合わなくとも美しく理想的で正しい歴史観の教え=歴史教育となってしまったのだろう。本来あるべき日本と我々の姿、美しく理想的で正しい思想の確認反芻の為の、結論としての過去=歴史物語。こうして神話と歴史が結びついて、皇国史観という気宇壮大な一大ファンタジーの世界が確立する。
南北どっちが本者でどっちが偽なのかはっきりせいと「正閏論」として政府につめよったのは、論争好きなキムタカ哲学者・木村鷹太郎。彼は「文部省は危険思想の府なり」と断定して井上哲次郎高山樗牛達と大日本協会を結成したのちに、自分の熱狂的信奉者と共に日本民族協会をつくり『為朝とタメルラン』『仁徳帝のエジプト浪華』『トマスモア「ユウトピア国」は我が日本津軽』『日本建国と世界統一の天照大御神』『天地開闢高天原』『東亜及び全米国の父・継体天皇』などを「新史学」としてトンデモ空想論を炸裂させた。この論争は政界に飛び火して、話せばわかるデモクラシーな犬養毅さえも、後醍醐天皇を奉じた楠木正成以下南朝忠臣こそ現代日本人の理想であることは自明であるのに、それを認めないとは非国民的行為として、桂内閣を攻撃した。佐幕派だった原敬は、政府側についた。
内閣総辞職すべきかどうか桂に相談され、事態をどう収拾すべきか悩んだ枢密院議長・山形有朋は、森鴎外に意見を求めたという。鴎外は南北並立を示唆したらしいが、聖裁ののち南朝正統の詔書が発布。教科書から5人の天皇と共に南北朝が消え、新しく南朝側3人の天皇が追加され「吉野朝」時代が創生した。明治天皇は、血統は北だが皇統は南の正統を継ぐものということで、北朝祭祀は従来通りという、なぁーんのこっちゃあワケワカメ。ここで「皇統」という新しい概念がひねり出された。
これで収まるかとおもいきや、反政府ナショナリスト達がこれに飛びついた。大逆事件幸徳秋水は裁判で、現天皇後醍醐天皇に謀反した子孫だといったとか。超国家主義者&デモクラシー派の反政府側は政府攻撃の為に、この論争を相次いで利用し、とうとう桂内閣は総辞職に追い込まれた。正しさや道徳・愛国心といった「皇統」を支える報国大義で民意を集め、政府や史実を動かした成功前例は、この時に記憶された。そして天皇機関説を契機とした昭和の国体明徴運動に繋がる。