国家と国民と個人と

日本の侵略行為とその対処について、歴史修正派の「あやまるような事実がない」も、日本の沽券重視派の「もうあやまった」も*1、謝罪要求派の「あやまってない」も、どれも自分達が着目した部分的事象のみを取り出した断片的解釈でしかなく、このように60年代以降の外交について見れば、儀礼として謝罪は適時なされてはいる*2が、謝罪側の政府閣僚・要人等が「問題発言」して謝罪を無効にしてきたということが妥当な解釈ではないだろうか。人間関係は「友好条約」や「連携・提携条項」や「婚姻届」という紙切れ一枚で決定・安定するものではない。問題発言⇔謝罪の連続は、謝罪ということばそのもの重みを軽くし空疎化してしまった。
政情の変化も、これに深く関係してくる。1982年の教科書問題を取り上げた中国には、米中をめぐる台湾情勢(武器輸出問題)が背後にあったといわれている*3。また円借款を含め日中友好促進に務めた中曽根首相の1985年靖国公式参拝時、中国政府は警告は出せどどちらかというと経済関係を重視して制御されたものであった。それが火を噴くのは、抗日40周年記念の北京大学での「抗日集会」が行われてからである。政府側とすれば抗日は台湾への国共合作の意味あいが多分に多かったのであるが、予定外の靖国公式参拝が行われたことでその軸が文字通りの「抗日」に一気に触れたという。無論日中友好さえ相手国政府に幾重にも確認しとけば万全だという中曽根首相の慢心はまぬがれないが、このように中韓に遅れてきた民主化の波は、国家政府に収斂されつくせない個人という存在を無視できなくなってきたのが、84〜5年以降の大きな特徴である。
その結果、世間の影に長らく押し込められてきた「慰安婦問題」に特徴的に見られるように、これまで為政者カードで繰り出されていた謝罪(賠償)問題は、時の政局政情から離れた「人権問題」として立ち上がってきた。『The Fact』の敗因も、問題とされていることが何であるか理解していないまま、身内内で通用している理屈を並べただけの文面だったからだ。
いわれる「歴史観」根底の、国家と個人の関係をパターナリズムをどう捉えるかによる、問題の捉え方のコード(国家≧個人、国家vs個人)の大きな違いなんだろう。それによって、歴史教科書問題=国家間威信 → 靖国参拝問題=国家に対する国民威信 → 慰安婦問題=国家に対する個人威信 という風に、実は少しづつ問題の質も変化しているのではないだろうか。
田中明彦日中関係 1945‐1990』『アジアのなかの日本
船橋洋一編『いま、歴史問題にどう取り組むか

*1:「歴史修正派」と「日本の沽券重視派」に分けたが、この2つは結構混線して存在している場合が多い。田母神俊雄もそうなんであるが、「日本は過去侵略戦争したことない」と「他の国も侵略戦争のようなことは歴史上してきたのだから、日本だけそれをいつまでも問われるのはおかしい」という2つの主張を、問われる文脈によって使い分ける「スリッパの弁証法」なのだが、その2つの主張が共存しているトータルな矛盾にはとんと無頓着であるのが特徴的。

*2:中韓だけクレームつけられる・謝罪していると言っている者もけっこういるが、纏めたものを見てもらえばわかるとおり、そんなことはない

*3:台湾問題についての日本の立場−日中共同声明第三項の意味−>http://www.jiia.or.jp/column/200710/24-kuriyama_takakazu.html