ネットの隅からの鎮魂

問題発言⇔謝罪の連続で関係はその都度揺れ動いてきたということを示す為に、このように時系列事象を並べてみたのではあるが、まー面倒な割にすこしも生産的ではない。しかし、情報収集してその過去情報の束から繋がりを掴むというのは、物事を考えるベースだとおもう。結局この作業を誰もが面倒くさがっているから、都合よい情報が固まっている1〜2冊の本を鵜呑みにして、あとは適当な憶測で錯誤したそれが肥大する。特に歴史なんか、それが過去に遡れば遡るほどに情報は膨大となるので、自ずから穏当なラインというものは出てくる。学者でも専門家でもない市井の民は、その穏当ラインから物事を図るしかないのであるが、そこで得られた自己解釈は全て暫定解であるということを心得ておくことは必要なことだ。しかしだからといって、全ての物事が不確実で流動的であるとするのは、現実的ではない。割れたコップはもとに戻らないし、死者は蘇らない。
こうしたとき、問題意識やありたい理想ということとは別の観点が必須である。リテラシーとはこのような時に招聘されるものである。リテラシーというのは、情報の解釈だけでなく、どこに当たったら詳細情報を取得できるかということも含んでいるかと考える。リテラシーを欠いたまま半径ワンクリックな排他的関係で問題意識やありたい理想をはぐぐむと、id:hizzz:20081118大麻陰謀論でみられるようなトンデモ説がいとも簡単に醸成される。
例えば、最初に問題になったのは「歴史教科書問題」だが、大抵の中高の授業実情は時間がなくて第二次世界大戦までいかないものであり、受験は山川出版教科書標準と相場が決まっているので、あまり「実害」がないことも相まって、そんなに問題とはならなかった。後、高校‐大学間で早々なかったことにされてるが、30年近くに渡って行われてた全国的な歴史単位未履修問題も「歴史無認識でOK」を大いに促進したことだろう。
今回は、特別な専門書から引いたものではない、殆ど誰でもアクセスできる平易情報で構成した*1。ここで見られるよに懐疑・失言・妄言とそれに対する説明の数々は、よせてはかえす浜の真砂のごとく、とめどない。ネットでは、どう内容が説明されてるかではなく、どう声高に印象的表現できてるかということに、とかく関心や共感が集まりがちではある。しかし、歴史をかたりついで未来につなげていくというのは、このような行為をも含むものだ。その地道な作業こそが、割れたコップ・死者に相対するひとつの誠実な営為であるかとも、又考える。

*1:今回のような検索は、情報の鮮度を重視してるGoogleよりも、やや信頼性に重点を置いているYahoo!の方がヒットし易かった。政府閣僚の公式記録は、役所のセクショナリズムからか、分散されており、事前に関連を掴んでいないと非常に検索が面倒ではある。また平成以前の記録は殆どネットにupされていない。