普遍主義の脱構築

デリダとハーバマスは、ドイツ憲法第1条【人間の尊厳、基本権による国家権力の拘束】「1.人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、および保護することは、すべての国家権力の義務である。」について、お互い強く同意したという。id:hizzz:20070222で見たとおり、ドイツ憲法が第一に「国家権力の拘束」を掲げ、イタリア憲法に至っては「戦争放棄」のみならず「主権の制限に同意」してる程、憲法は国家から「人権」を守ることに主眼を置いて変遷してきている。このネーション法にステートたるEU法がかぶさる。
三島憲一は、東西統一からネオナチ等のナショナリズム・外国人排斥、NATO海外派兵・湾岸戦争・ユーゴ内戦、歴史家論争、EU統合へのドイツ社会政治の変遷を記した中で、ドイツで広く受容されたというジャック・デリダ他の岬―ヨーロッパと民主主義』を引いて、知らない興味無い的自己へ籠るタコ壺のシニシズムではない、他者へ自己を開くラディカルな脱構築の使い方を示唆する*1

ヨーロッパははじめから自らの尖端を乗り越えるべきものとしてあるというのだ。ユーラシア大陸から突き出た半島のその尖端の岬にヨーロッパはある。岬はフランス語でcapであるが、それは同時に首都(capitale)や資本(capital)の語源でもある。それはファルスにもつながり、古くからの力と理性の結合でしかない男性中心主義でもある。
しかし、彼が言うのは、そうした通常の意味とは異なる最尖端である。つまり自らを開き、乗り越え、「岬の他者」、つまりヨーロッパとは異なる他者に開かれた尖端となるのがヨーロッパの責任である。というのだ。文化的アイデンティティにあぐらをかくのではなく、アイデンティティ自身が「自己自身と同一でない」ことに在するようなヨーロッパである。「自己にあっての差異がなければ、文化や文化的同一性は存在しない」からである。
「自己自身の同一性に自閉せず、自己自身の同一性ではないものへ、他のキャップあるいは他者のキャップへ、さらには(中略)この近代的伝統の彼岸であり、もう一つの船=縁の構造であり、もう一つの岸辺であるようなキャップの他者へ向かって、範例的に前進していく=尖き出ていくことにほかならないヨーロッパ」を彼は要請する。

現代ドイツ―統一後の知的軌跡三島憲一

世界の非難をあびてもなお1民族国家を死守しようとするイスラエルは、戦争と殺戮のヨーロッパの歴史のいわば最尖端なのであろう。一見、宗教戦争のような建前=正統性をとった内実、きわめて今日的政治戦略による殺戮が止まらない。しかしこれは決して、遠くの土地で起こっている異者たちの不可解な出来事ではなく、文化・宗教は違えどもやはり1民族国家的志向の強い日本から見れば、自分たちも内包しているあらゆる意味での「忌わしさ」を剥き出しにされたような感で目をそらせずに、わずかな理性をざわめかせているのはワタクシだけであろうか。
イスラエル非難決議採択 国連人権理事会、日欧は棄権
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2009011201000421.html
アラブ・アフリカ諸国グループやイスラム諸国会議機構(OIC)を代表しエジプト、パキスタンなどが共同提案。発展途上国の理事国の大半や中国、ロシアなどが賛成に回った一方、内容がイスラエル批判に偏りすぎているとの立場からカナダが反対、日本やEU加盟国は棄権。米国は理事国に入っていない。

昨年末空爆以前のガザの「日常」

・『われわれの戦後復興―ヨーロッパの再生』デリダ&ハーバマス共同声明 id:hizzz:20090103
・批評のパラドックスid:hizzz:20081210

*1:アルジェリア出身のユダヤ系フランス人であるデリダは、同書の最後で「自分はヨーロッパ人であるが、しかしすみからすみまでヨーロッパ人であるとは思わないし、そうであるべきもない。自分はヨーロッパ人でもまたあるのだ。」と両義的アイデンティティに自己があることを述べている。