神的支配から人的支配へ

ヨーロッパとは何か』クシシトフ・ボミアンに依ると、12〜16世紀にかけてのヨーロッパでは3つの文化が存在してた。ラテン語の聖職者スコラ文化、各地の俗語で朗読・口承されたネイション形成途中の戦士・騎士文化、北イタリア・フランドル・ラインラントの都市貴族・市民文化=商人・職業の実践、それらから切り離された外界にあった土地固有の部族・農民文化である。中世伝統のスコラ文化にとって変わろうとする人文主義の台頭は15世紀。人文主義はスコラ文化と異なり、聖職者だけでなく俗人にも関係しており総合力があった為で、各民族国家において、国の過去の賞揚に用いられ支配の礎となり、人文主義者は公式の歴史編参家の称賛者となった。

それぞれの国で地元出身の人文主義的文化が形成され、ヨーロッパ規模で普及した結果、古代人の遺産の、時を超えた普遍的、全体的価値を万人が認めることを基盤として―だからこそ宗教改革以後もこの統一は存続したのである。―ヨーロッパのエリート層の統一が強化される一方、同じ流れにより各民族(ネイション)の歴史、言語、文学の品位が高められたことから、同じエリート層の差異の深化もまた起こったのである。
印刷術の発明と普及がなければ、人文主義がこれほど急速に、深くまた持続する効果を及ぼすことはまずできなかったであろう。…こうして印刷術は、ヨーロッパのエリート層の統一を強化した。しかし同時に、民族的(ナショナル)な差異も深めることになった。なぜなら、俗語で書かれた作品がしだいに数多く公刊されるようになったからである。

増補・ヨーロッパとは何か―分裂と統合の1500年 (平凡社ライブラリー)』クシシトフ・ボミアン

ロッテルダムエラスムスは印刷術によって、文字どおりラテン・キリスト教世界にあまねく知られるヨーロッパ的人物になった。物理学よりも論理学を重視した彼は、「キリストの哲学」と「文芸」を顕揚し、個人の自由と意識の自律性を擁護した。彼の膨大な書簡の読者は上層知識階級だけでなく、各俗語に翻訳印刷されて学校教師や司祭といった者から市民やさらに職人までもの、自身の宗教道徳的観念や時代的不幸に対する意識にふれることとなった。没後地バーゼルは、人文主義者達の国際的連合の中心になっていった。そしてその流れは、宗教戦争が終息したパリに移動し、仏語書物はしだいにラテン語書物をしのぐようになっていった。またナントの王令廃止によるユグノー追放は、結果的にヨーロッパ各地にそうした知識人文主義な仏文化を広めることにもなった。
宗教に対する政治の自律は、16世紀から国家より上位に位置する教皇により守護される「キリスト教共和制」の原則ではなく、国家が主催者として自らの利益を定義し手段を選択して利益を守る権利があると、「国家理性」という観念で語られはじめていた。