人文理性の戦い

そうした教皇vs国家の人文理性争い=宗教改革で国家が勝利を収めたところで、フランスの啓蒙文化が華開く。しかしなんだかんだいってっても国家の対抗馬=ネガとしての人民でしかなかった啓蒙支配思想に対して、その次はブルジョワvs人民の人文理性争い=革命が起こってくる。そんな仏文化への2大要塞は、英国とスペイン。分業と市場重視のアダム・スミスな諸国民の富に力点を置く個人(自由)主義の英国、宗教を重んじつつ民族的(ナショナル)伝統を強調していくスペインとそのベクトルは啓蒙普遍を中心とするとまさに2極であった。フランス革命〜ナポレオン侵攻はヨーロッパ諸国に民族(ナショナル)感情熱を引き起こした。

スペインでも同じような現象がおこったことは、―しかも、比較を絶するほどの激しさをもって―、啓蒙思想にひたっていたフランス人にはまったく理解しがたかった。大司教枢機卿の命令でジャコバン派が貧民に皆殺しにされたナポリパルテノペ共和国(1799年成立)の悲劇的な結末からも、ヴァンデーの反乱(王党派の反乱1792〜95年)からも、まったく教訓を得なかったらしいフランス人は、異端裁判や無知な聖職者層をはじめとする中世の迷妄の桎梏からの解放者として歓迎されるにちがいないと確信してスペインに侵入していった。ところがフランス軍が遭遇したのは、少数の新仏派を除くエリートの執拗な抵抗と民衆のゲリラであった。みずからの君主制、伝統、信仰を擁護するためには戦争のあらゆる惨禍に耐え、かつ敵にも被害を与えようと決意を決めた国民(ネーション)に、フランス人はぶつかったのである。
同じようにティロル地方や、貴族と農奴の身分が完全に分離されているロシアですら、フランス軍の侵攻はスペインと同様、民衆をあげての国民的(ナショナル)抵抗をひきおこした。

しかしナポレオンとの戦いで喫した敗北(イエナとアウアーシュテットの戦い1806年)から最も早く、最も理論的に政治的・軍事的教訓を導き出したのはプロセインであった。

プロセインは、言語、伝統、民族史への固執や、とりわけフランス支配の拒否によって民衆と強い絆をもっていたエリート層のかなりの部分の影響を受けて、諸制度を改革し総動員に基づく軍隊の再編成を行い、その後、全国民の兵役義務を導入した(1814年)。国民(ネーション)の観念を戦争遂行に適用しようとした知識人や政治家を含む将官たちに導かれたプロセイン軍は、大量動員からなる軍隊としてはフランス軍についで2番目の国民軍だったが、そのおかげでナポレオンに対する勝利者のなかでプロセインは特権的な地位を得て広い領土を獲得し、ドイツ統合への道が開けたのである。

諸地域で引き起こされた侵略に対する国民的(ナショナル)抵抗とその勝利は、自地域の風俗の文化昇格へとつながる。最も国民性(ナショナリティ)があるものとして、文化人たちは好んでそうしたものを素材にして、従来の形式メソッドを崩す感情主観的表現を行い、普遍理性は後退するとともに既存権威宗教も後退し、神秘主義やうずもれていた中世民衆信仰が復活した。それらがロマン主義へと発展していった。その中で、啓蒙文化とロマン文化の統一への試みは、ゲーテやベートーベンやヘーゲルといった巨匠によって代表される。そして、解釈学というシュライエルマッハーの試みが生まれたのも、その一つであった。

解釈学とは―まずは宗教作品を対象にし、その後、文学・芸術作品に向けられた―作品の外面にのみ関心を示していた古来の批評とは異なり、作品を理解するために、そこに内在する原則、それぞれの作品に有機的な統一と固有の意味を与える原則を把握しようとつとめる方法である。
作品を理解するには学者みずからの内に作品を再創造しなくてはならない―ただし再生可能な仕方で―として学者の直観と想像力に訴える解釈学は、考証学者と哲学者の修正を経た人文主義の遺産に当時まで基づいていた、精神史、文学史哲学史、宗教史、芸術史ならびに文献学を革新した。解釈学の影響は政治史にも及んだが、…こういったことが可能だったのは、その他の諸国とは異なり、ドイツの大学が研究と教育を合体させてはじめていたからである。それは、真実を理解させるには真実を発見するすべを知り、他人のために真実を自分の内に創造しなくてはならないという解釈学の原則に基づく合体であった。

プロセインの近代化を目指したヴィルヘルム・フォン・フンベルトは、この解釈学を最大限に生かした。それは国家の財政補助を受けつつも知識獲得と伝達に関すること全てに自治権をもつ研究教育機関としてのベルリン大学に、表象された。以降ベルリン大学は、大学の規範的在り方・知の正当権としてヨーロッパ中の衆目のおかれる処となる。
しかし王政復古となってもフランスは依然として啓蒙思想の牙城であり、普遍の追及は革命中でも遂行された国家的大規模ミッション度量衡に結実する。>『万物の尺度を求めて―メートル法を定めた子午線大計測』ケン・オールダー 
このような普遍志向は、人間研究・行動に統計手法を採用したケトレによる社会科学を生み出した。アンシャン・レジームと結びついた啓蒙主義にとって周縁においやられたロマン主義は、民衆運動と結びついた反体制となり、フランスにおける啓蒙(社会科学)vsロマン(解釈学)は以降、政治性色を強めつつ、普遍と周縁を網羅する両輪アプローチとなる。
ビル・レディングス『廃墟のなかの大学』に依れば、「理性」はその批判力によって、単なる経験学問を理論科学に押し上げ大学全体に自律性を与える基礎になるとして、「理性の自律性」を最上位にかかげたカントではあったが、その自律を大学制度内制度にしてしまった自律の他律化を解消するために、より大きな制度=国家を求めることになったという。そこでの大学の自律とは相対的なものであった。「民族統一体としてのドイツ人国家を正当化する」課題にあったドイツ国家が必要としたのは、「民族統一体としての文化」であった。そこで、国家と手を結んだ大学は、国家「正統性」達成としての「文化」探究にシフトする。フィヒテ、シラー、シュライエルマッハー、フンボルトらカント以降のドイツ観念論者は、「伝統の解釈」によって、過去に回帰するのではなく、伝統を合理的な民族的自意識にまで高めるのだ。その伝統の解釈こそが「文化」であると、理性による進歩と伝統による回帰との調停という弁証法となった。そして大学の役割は「国民に対し、それに従って生きるための国民国家という理念を与え、国民国家に対しその理念に従って生きることのできる国民を供給する」機関となった。