人文理性から科学論理性へ

18世紀博物学の秩序整理となった進化論は、社会哲学者が歴史家の「直観」の裏付けとして使われ始め、科学に対する社会の投影方式は、資本主義社会の階級利害や植民地支配といったものの正当化と批判に持ち込まれる。

進化論は18世紀の博物学者が精錬してきた生物を秩序だてて整理する図式を引き継ぎ、これに説明的なダイナミズムを導入した。歴史学スコットランド学派によって最初の下絵が描かれた社会進化論─が科学者たちに、その先輩たちの創り上げた「自然体系」に動きをもたらす鍵を提供した。そのお返しに、今度は「科学」が社会哲学者や歴史家の直観の裏付けに回り、文化人類学社会学といった、科学での接近を望むあらたな社会研修分野に基礎を提供した。(ラドクリフ=ブラウンにとって社会人類学は、「自然科学の一分野」だった)
進歩の概念によって力を得た直線的歴史観─自然史及び人類史─を中心要素とするこの総合的なパラダイムが、科学に対する社会の投影という性格を大いに持っていたからといって、これが資本主義社会内部の階級的利害や、世界的に見た場合にはヨーロッパ新の他の集団に対する植民地支配の、単なる正統化にすぎなかったというわけではない。これは大きな思想の枠組みであり、その内部では同時に正統化と批判、どちらの姿勢も展開することができたのである。社会進化論は「ブルジョワ文明の宇宙的系譜の一種」と定義されてきたが、ブルジョワ文明に対する批判的見方と共存することも可能だった。
この理論を批判的に用いるには、現在を「歴史の終点」とみなすことを止め、それを人類の進歩における過渡的な一段階にすぎず、そこには進歩をさらに進めるために克服されるべき否定的な性格が残存していると考えるだけで十分だった。これがマルクスの初期ヴィジョンだった。当時のドイツを特徴づけるギリシャ文化崇拝の中で教育を受けた彼は、独自の社会・歴史解釈をスコットランド学派を批判しながら練り上げ、技術の支配度によって定められる「生活様式」を、人間関係の性質による「生産様式」へと変換した。しかしこのために単一の直線的進歩の図式を受け入れてしまい、こそから逃れることができたのは、やっと晩年になってからであった。(その劇的な結果としては、彼の後継者たちは初期のより図式的な定式化に固執して、マルクス晩年期の疑問や修正の光に照らしてこれを改めることができずに終わった。)

鏡のなかのヨーロッパ―歪められた過去 (叢書ヨーロッパ)』ジョセップ・フォンターナ

ブルジョワ社会科学の依拠する原理を受け入れた「科学的社会主義」は、資本主義の相克は「超産業化」によって実現可能であると思いこんでしまったように、非ヨーロッパ諸国もそのヨーロッパ支配政党化という役割を末梢する際にはこれを占有できると信じ込むという、同様の過ちの犠牲者となっていった。これまで文人/詩人/芸術家の特権階級で占められていた知のカテゴリーに、産業革命で急速な進化を迎えた「科学者」が加わったことで、大文字の科学としての「教養」ヒエラルキー構造が、ドレフュス事件を契機に自己をマニュフェストして政治化する知識人と社会的エリートの対立などもからんで、新聞メディアが庶民を巻き込んで醸成した輿論でもって、「大衆」動員社会が生成されていった。>『「知識人」の誕生 1880‐1900』クリストフ・シャルル 
産業革命以降のヨーロッパ各国の戦略的重要課題は、国民(ネーション)の<垂直統合>の完成が焦点となった。「テクノロジーによって制御されたエネルギーのみが、文化的進歩をもたらせる」という産業革命のセオリーよろしく、排除することが不可能な社会紛争をできるだけ抑え、生産力を強化する為には、民主主義を採用することが国益に適う方法論であった。議会と世論の代弁機関という調節弁を通した国民(ネーション)を構成するあらゆる階層・階級要求をくみ上げるとする国民国家(ナショナル・ステート)構造は、こうして正当化され採用されていった。

あらゆる人間は「他者」の鏡に自分を映し、そのイメージと異なるように自らを定義する。しかしこれは同じ言語を話し、生活様式や習慣を分かち合っている共同体にとっては容易いが、ヨーロッパ人という規模になるとそうもいかない。16世紀以降、宗教統一が破られ、さまざまな俗語を用いた文学が力を得てからでは、なおさらである。1714年のユトレヒト条約が「キリスト教社会」という言葉を用いて書かれたヨーロッパ最後の文章であった。以来この複合的な集団は、より複雑な鏡の組み合わせに自らを映し、その多様さを認めた上でその他のものからは区別できるような自己定義を可能にするものを見つけ出す必要に迫られた。ヨーロッパ人の自己定義のこの新たな形式は、もはや宗教とは関係がない、自分たちは精神的・知的に優れた存在であるとの信念に基づく意識から生まれた。このイメージを練り上げる土台となった新たな参照タームが、非ヨーロッパ人の劣等生というものだった。しかし自己定義を求めてヨーロッパが覗きこんだこの鏡は、2つの面を備えている。一方には人種の違いが「見え」、「野蛮人」の顔が映っている。ヨーロッパ中心主義史観に基づいたもう一方には、「未開人」が見える。前者いから民族虐殺(ジェノサイド)と奴隷化が、後者から帝国主義が誕生した。
「国民(ネイション)」と「国民国家(ネイション・ステイト」を混同してはならない。国民感情―共有文化に基づく集合的意識―は、いかなる時代にもどこにでも存在しており、従属関係や植民地支配から独立するべく戦う共同体において、解放を求める力として機能してきた。国民国家はこれに対し、19世紀に固まったもののように、通常は以前の絶対主義国家が装いを新たにしたものにすぎなかった。

ヨーロッパは自己意識/他者意識の構造のように内部空間における支配/被支配の構造が「ヨーロッパ的なるもの」を生み出してきたというフォンターナによれば、こうしたヨーロッパ史観は民衆を内なる野蛮人という役に押し込め歴史と意識を奪うことによって、既存社会秩序を維持しようとする権力者のために創られたもので、「歪んだ鏡に映じた自己像」であるという。