国民国家と領土

それまで為政者たちの権力欲に基づいた軍事・政略上の力関係で決まっていた領土=国であったが、19世紀以降の「ネーション」の名を負う国民国家たる領有範囲とは、国民=民族が本来持つべき領土というナショナリズム論理が台頭してくる。それは、自己領土を守る為の「生命線」的意味での周辺領土保持という国境拡大路線の口実ともなるし、そうした「本来持つべき領土」を他民族が支配していたら、それは不当な異民族支配という帰結に容易に結びついた。学問的には、これを「イレデンティズム=失地回復」という。
第二次大戦後ドイツの領土問題といえば、冷戦による東西分割が思い浮かぶが、ドイツのナショナリズム的にはもう一つを加えて3つに領土が分割されていた。それがドイツ東方、オーデル=ナイセ領、ポーランドとの国境線問題であった。ポツダム会談で、オーデル川とナイセ川を境にしてドイツとポーランドの国境は引かれたが、その境より東のポーランド側にはドイツ民主共和国東ドイツ)とほぼ同じ位の広さをもつ旧プロイセン王国領であった地域(東プロセイン、ポンメルン、ブランデンブルク東部、シュレージエン)があり、第二次世界大戦末期のソ連軍事進攻以降、連合国管理下には置かれずソ連ポーランド直轄地であった。
スターリンの領土的野心や「民族的に純粋な国民国家」観から、そこに住んでいたドイツ系住民は、その他の中東欧に住んでいた全ドイツ系住民と共に「追放」させられた。残留者も2級市民的な差別を受けたという。一方ソ連領内のナチに協力したドイツ系住民は、中央アジアやシベリアに強制移住させられた。そんなドイツ系を追い出した後の東方領土には、ポーランド国境の西方移動により、ソ連領となったポーランド東方から追い出されたポーランド系の人々が移住してきた。強制移住させられた者達1500万人は「被追放者 Vertriebene(r)」と呼ばれ、祖国喪失と共にドイツのナチズム以外のもう一つの過去問題としてドイツ戦後のナショナル・アイデンティティに深い影を落としてきた。>『異郷と故郷―ドイツ帝国主義とルール・ポーランド人 伊藤定良
ナショナル・アイデンティティと領土』佐藤成基では、ナショナル・アイデンティティを「ネーションあるいはそれと等価なカテゴリー(国名・民族名などの表象概念)を用いてなされる自己理解の方法」と概念規定する。その前提として3点を挙げる。

第一に、帰属の対象として「ネーション」という集合体を実体現しないということである。「ネーション」という集合体の存在を最初に前提にしてしまえば、ナショナル・アイデンティティはその集合体への帰属意識・帰属感情として唯一のものが想定されてしまう。となると、ネーションとしうカテゴリーを用いてなされる自己理解の方法としてナショナル・アイデンティティをとらえ、その意味の多様性や変異を問うという余地がなくなってしまう。
第二に、ナショナル・アイデンティティは個々のアクター(個人であれ集合体であれ)が、その実際的活動の場面において理解し・解釈するものである。各アクターは、それぞれの文脈の中で、その置かれた地位や利害関心の下、「ネーション」を様々に解釈し、主張する。また、そのように主張されたナショナル・アイデンティティを受け入れ違和感を抱き、批判し、あるいは忘却する。このような個々の解釈行為を超えた何らかの超越的かつ不動な理念として、ナショナル・アイデンティティを想定することはできない。
しかしながら第三に、ナショナル・アイデンティティは個々の行為者の主観の中で別々に構想されるものの単なる集積ではない。ナショナル・アイデンティティは、個々の主観的認識から相対的に独立する。集合的に共有された自己理解の枠組みである。たしかに個々の行為者の理解するナショナル・アイデンティティはそれぞれに異なっているであろう。しかしそのような個々の行為者の理解するナショナル・アイデンティティを積み上げることによって、ナショナル・アイデンティティの「全体像」に迫れるというものではない。ナショナル・アイデンティティとは、個人のアイデンティティではなく、あくまで集合的なアイデンティティなのである。…しかしそれは、先の二点で否定したような、超越的で不動な理念ではない。その共有の程度は様々であり、複数のアイデンティティが競合し、錯綜し、共存する。その勢力布置状況は時と共に変化する。

ナショナル・アイデンティティと領土』佐藤成基

本は、単一でなく様々な解釈が複合的に創作するネットワークとしての「ネーション」として、共同体について成員たちがもつ自己理解のための解釈論の図式を問うかたちによって、戦後ドイツの「帝国アイデンティティ」から「ホロコーストアイデンティティ」へのナショナル・アイデンティティの変遷を、ポーランドとの和解と東西統一を契機に戦争が引き起こした負の価値を正の価値にして国民的合意をへて1990年国境最終確定をもって東方領土を自己決定により平和的放棄した過程のコンテキストを、様々な政治アクターが参加した「公共的言論界」と捉えその攻防を追う。
連合国側によって勝手に引かれた国境線への不満に対し、それでは「本来のドイツ」はどこからどこまでなのか?という問題が浮上してくる。ドイツ右翼といったらネオナチを連想してしまいがちだが、それは極右であって、さすがにドイツ連邦共和国(西ドイツ)の大半は拡張軍国主義ナチスドイツエリアを本来ドイツとはしない。1937年段階でのドイツ領土(ヒットラーオーストリアチェコ侵攻前)存続が正当前提である「帝国アイデンティティ」とした。第一次世界大戦後のベルサイユ条約でドイツは西プロセインとポーセンを失い、その時もドイツ移住かポーランド下での強制同化と差別の対象にドイツ系住民は遭遇していた。そうした流浪の歴史にある被追放者諸団体は、その妥当性根拠を故郷で生活する権利「故郷権」に求め結束し、「失地回復運動 irredentism」を担った。