負を正とした国家アイデンテイティ

キリスト教徒を含めて難民申請受理されなかった避難・強制移住者達の援助・警察からの保護活動に深く関わっていたドイツ福音教会は、1965年『Denkschrift 福音主義の覚書』を発表する。本来直轄地域民の為の1宗派施設であった教会は、肝心の教区民が追放・移住によって移動して繋がりが途切れてしまった為、広くキリスト教センターとして異宗派を受け入れることとなり、またキリスト教的普遍主義は、非キリスト教徒をも隣人の「犠牲の民」として受容することとなり、迫害・犠牲の牙城となっていった。
福音主義の覚書』は、ドイツとポーランドとの和解と対話、平和的な共存の為にドイツが東方領土で一定の譲歩をする必要性を説き、「緊張緩和は政府がドイツ人民の中に東方の隣接する諸民族との間の精神についての理解と同意を見出すことができる場合にのみ、可能なのである」とした。さらに、過去「ドイツ民族の名」において行われた罪や不正、現在のドイツ人に新たな「義務」を発生させていると論じる。

東側の隣人たちから、ドイツ人の平和を守る義務という観念がもたらされたのである。またポーランド国家は、ドイツとの苦痛に満ちた歴史的体験のあと、安全保障への権利を高め、彼らにとっての高度の安全を保障するような国境を選択しなければならない。この安全保障を、軍事的な意味で理解するのであれば、この議論は説得力をもたないであろう。第二次世界大戦後に勝利国によってほとんど恣意的に引かれたオーデル=ナイセ線が、ポーランド保護のために戦略的に有利であると見なそうとしうのではない。何百万ものドイツ人住民の追放、特にポーランドの西側からの追放は、不満と動揺の原因を生み出したのであり、安全保障と平和の国境とは別のものを創出したのである。しかしここでの議論は、次のように解釈するならば、正当な本質を含意する。
苦痛な過去の遺産は、ドイツ民族に対し、将来ポーランド民族の生存権を尊重し、ポーランド民族の発展に必要な空間をのこしておかねばならないという特別な義務を課している、という解釈である。ドイツ帝国は1939年8月23日に独ソ条約(リッペントロップ=モトロフ条約)によって新たなポーランド分割と東ポーランドソ連への併合に合意する宣言を行った。よってドイツ政府は今日、東ポーランドの喪失によりポーランドの経済的生存に不可欠となった[オーデル=ナイセ以東の]領土の返還の主張をとなえることを慎まなければならない。

『被追放者の状況と東方隣国との関係に関して―福音主義の覚書』ドイツ福音教会

これはマックス・ホルクハイマーやテオドア・アドルノらの亡命者を中心としたフランクフルト学派やカールー・ヤスパース、ギュンダー・グラスらの文化知識人達の議論に端を発したものでもあった。第一条「ドイツ民族は世界のすべての人間共同体と平和と正義を基礎づけるものとし、不可侵で譲渡しえない人権を信奉する」、ドイツ憲法基本法制定過程からはじまっていたこれは「ホロコーストアイデンティティ」と呼ばれる。
発表当初複雑な反応を引き起こした『覚書』は、その後「戦後承認」に向けてのきっかけとなる。ヴィリー・ブラント首相の新東方外交以降、政治家はドイツ民族に要求される「犠牲」について「過去の克服」*1として言及していくこととなる。またこの時期60年代は、ナチ犯罪追放キャンペーンが有力政治家の過去にも及んだ。70年代になると、ナチ犯罪に偏りすぎた過去歴史に対してコール政権は修正を試み過去から脱却した「普通の民族」として「過去の正常化」を図る一方、新勢力である緑の党などの平和運動系が、現代でも外国人差別を生み出しているドイツのファシズム的本質の克服までも含んだ「過去の克服」史観を展開した。
そんな攻防土壌の後に、1986年、ユルゲン・ハーバマスらの『過ぎ去ろうとしない過去』歴史家論争が起こった。「過去の正常化」である保守派のエルンスト・ノルテが、ソ連ボリシェヴィスムへの防衛としてナチ暴力が発生し、スターリニズム暴力と比較可能であるとしたことに対して、「過去の克服」左派であるハーバマスらが反論したもの。保守派はナチ犯罪を全面擁護した訳ではなくナチズムを他のケースと比較可能にすることで、ホロコーストの脱「聖域」化を目指すことによって、領土放棄という「犠牲」決意を主張する「過去の克服」論の根拠を崩そうとするものであった。が、結果は、保守派の思惑と正反対にかえって過去の異常さが浮き彫りになった。政治的には、「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります」というヴァイツゼッカー大統領のホロコーストアイデンティティを取り入れた終戦40周年記念演説に現れた。>『荒れ野の40年―ウァイツゼッカー大統領演説全文 1985年5月8日 (岩波ブックレット)*2
1990年代に入り、東西ドイツ統一がいよいよ政治の現実課題にあがってくるにつれて、他ヨーロッパに脅威を与えない過去との決別を見せるという実利・現実論にも、憲法愛国論として「ホロコーストアイデンティティ」ははまっていった。西ドイツの経済的成長により移住民達の新天地でも経済基盤は盤石化してたということが「帝国アイデンティティ」は実利より精神的な面に後退してたところに、旧領土残留者も含めて被追放者というマイノリティ・ドイツ人は、「ホロコーストアイデンティティ」では対話と共存を実践するロールモデルとして表象されるようになった。そして、統一ドイツのアイデンティティとして、「ホロコーストアイデンティティ」が体制下されるに至った。
統一ドイツを超えたEU東方拡大はかっての追放国家であるポーランドチェコを含み、ヨーロッパ全般の人権規範の高まりと共に、従来の戦争被害と共に、ドイツ自身の第二次世界大戦被害者と「追放の不正」問題が表面化し、相対化ではない過去の並列化が可能となった。自身ダンツィヒグダニスク)を追放されたが反国民国家であり左派リベラル言論を担っていたギュンター・グラスの、ナチ末期のドイツ人災害事故を扱った『蟹の横歩き―ヴィルヘルム・グストロフ号事件』はそのような中で出版され、さらにその後、武装親衛隊に所属していた過去を告白し、批難を含んだ大反響をひきおこした。>『玉ねぎの皮をむきながら
これまでのナチ犯罪だけを絶対視してきた「ホロコーストアイデンティティ」は、ナショナリズム的にはネーション・ステート的憲法愛国主義に結実している。しかしややもすると相殺化されかねないこのような過去並列化の昨今の機運によりナショナル・アイデンティティは、EUという集合体の「ステート・ネーション」と重層共存していくのか、それとも新たなる統一と離散を得て変容していくのか。こうしたギュンター・グラスの人生に於ける立場の「揺れ」にみられるように*3、「ネーション」概念は多義的なものであった。ひとの人生というものがそんなに平面一義的なポリシーで営んでいけないように、様々な時流が吹き荒れる陸続きのヨーロッパ諸国は、領土の拡大-喪失を繰り返し国境線の変更にさらされてきた。ドイツ人といっても、そうした国民国家(ネーション・ステート)ドイツとは別の、国家(Staat)から切り離された民族(Volk)としてのエスニック・ドイツ系が政治的存在として国内にフイートバックして、極右から極左に至る概念のグラデーションを作っているのであろう。そうした歴史から見てみると、むしろ国民国家(ネーション・ステート)自体かなり特異な概念であるといえる。
19歳まで過ごしてきた生まれ故郷アルジェリアをフランス人であると認定され追放されたデリダとハーバマスのイラク戦争をきっかけにだされた『われわれの戦後復興―ヨーロッパの再生』id:hizzz:20090103の背景には、こうしたネーション・ステート的アイデンティティを跨ぐ高次のステート・ネーション・アイデンティティの腑わけの必要性に迫られた表明に他ならないのだろう。

*1:ドイツ連邦共和国初代大統領テオドーア・ホイスが言った言葉。ヒトラー支配下ドイツ=ナチス・ドイツがもたらしたおぞましい帰結の様々な取り組み(被害者補償、体制犯罪司法訴追、歴史教育、政治・制度実践、文化活動など)の総称

*2:ヴァイツゼッカー自身は、リベラル左派ではなく教条的保守派。この演説の背景は、ヘルムート・コール首相が、訪独したドナルド・レーガン米大統領をナチ親衛隊も葬られていた墓地に案内した失態を糊塗するための、政局がらみであった。

*3:グラスはドイツ統一を批判した小説を出している。>『一筋縄ではいかない』