寛容・歓待・コスモポリタニズム

デリダ&ハーバマス共同声明発表前、911を強く意識して編纂された『テロルの時代と哲学の使命』ジョヴァンナ・ボッラドリは、ヨーロッパ知識人のテロリズムへの<啓蒙>作業について2人に個別インタビューをしながらその政治姿勢について考察してる。
米政府の「テロ撲滅」声明を受け、普遍主義と寛容について、道徳・政治哲学の観点からハーバマスは応える。

ユルゲン・ハーバマス「寛容の概念は歴史を通じてそうしたコノテーション(寛容は「歓待」あるいは「友愛」の概念におきかえられたほうがよい家父長主義的語彙)を持ってきました。…ナント勅令により、フランス王は宗教的マイノリティであるユグノーに対して、王権とカトリックの至高性に疑義を唱えないという条件で、自己の信念を告白し、自己の儀礼を維持することを許可しました。寛容は、数世紀にわたり、このような家父長主義的な精神において実践されてきました。主権を有する支配者あるいはマジョリティの文化が、それ自身の裁量で、進んでマイノリティの逸脱した実践を「寛容に扱う」と宣言するわけですが、その宣言が持つ一方的な本性は家父長主義的です。このようなコンテクストにおいては、「寛容な扱い」という行為は、憐みによる行為、あるいは「施し」の行為の要素を保持しています。寛容に扱われるマイノリティが「寛容の臨界」を踏み越えないという条件つきで、一方の当事者が協力の当事者に対して「正常性」からの一定の逸脱を許すのです。このような権威主義的な「許容観」に対しては、極めて正当なことですが、批判がむけられました。というのも、何がなおも「受け入れ可能」で、何がそうでないかを分かつ寛容の臨界が、既存の権威によって恣意的に確立されていることは明白だからです、そのとき、寛容は、みずからがその彼方で終わるだろう境界の内部でのみ実践されうるのだから、それ自体が不寛容の核を有しているという印象が生じます。」
「市民の平等な権利と相互的な尊重という基盤の上では、誰も自身の選好と価値指向の観点から寛容の境界を設定する特権を有してないのです。確かに、他の人々の信念をその真理を受容することなしに寛容を扱うには、また他の生活様式をその内在的価値を評価することなしに、私たち自身の生活様式と同じように寛容を扱うには、共通の基準が必要です。民主的な共同体の場合、この共通の価値の基礎は憲法の原理のうちに見出されます。言うまでもなく、この原理に関する真の理解についても論争が生じます。けれども重要なのは、憲法の原理が享受する特異な反省性です。この込み入った問題の説明は、私たちを普遍主義の問に連れ戻します。」

テロルの時代と哲学の使命』ジョヴァンナ・ボッラドリ

と、こうして公共性を第一義に挙げるハーバマスは、倫理と法の両面において「寛容」の側に立つ*1

ハーバマスは自由であって強制的でないコミュニケーションと理性的なコンセンサスの形成を配慮できる唯一の政治状況として立憲的なデモクラシーを考えている。この彼の考え方から寛容の擁護が出てくる。ハーバマスは言う。確かに、寛容という用語はもともと宗教的なものであり、世俗的な政治がそれを自分のものにしたのはその後のことにすぎない。さらに、寛容が本来的に一方的性格を持つことも本当である。「何がなおも『受け入れ可能』で、何がそうでないかを分かつ寛容の臨界が、既存の権威によって恣意的に確立されていることは明白だからです。」しかしながら、ハーバマスの見解では、議会制民主主義が提供するような参加政治システムのコンテクストで寛容が実践されるならば、寛容の持つ一方性は中和されるのである。

ジョヴァンナ・ボッラドリ

そんなハーバマスとは対照的に、「寛容」の代わりに「歓待」を是認するデリダ*2を、「デリダの作業は、歓待の問いを国際関係のコンテクストで初めて提出した、<啓蒙>の主要な哲学者カントの主要なテクストの、精緻な再加工である」とボッラドリはみる。

デリダをある種のポストモダニスト相対主義へ傾いた反<啓蒙>的思想家―として解釈する人々ならば、寛容の普遍的な射程をデリダ脱構築することを、みずからの論拠として利用するかもしれない。しかし反対にデリダにしてみれば、たとえば寛容のような、<啓蒙>の伝統に属する一見中立的な概念をその歴史的かつ文化的な限界において境界画定することは、<啓蒙>のアジェンダを裏切ることではなく、むしろ拡張し刷新することである。現代のとりわけグローバルな課題に向き合うためには、社会批判と倫理的責任は、中立的な見かけを持つが潜在的には覇権的である理念に対する脱構築を必要とする。脱構築は普遍的な正義と自由への要求を切り詰めるどころか、それを無限に新しく蘇らせるのである。

ジョヴァンナ・ボッラドリ

「歓待」の中にも国際機関の本質的な役割と法を尊重する精神を養う必要を強調し「私たちは人権の窮乏のなかにある」としたデリダは、911後の国際政治&外交と哲学者が一緒に仕事をすることは大いに有益であるとし、国際関係言語を再構築するために哲学は比類なき役割をはたすことだと、その使命を強調する。

ジャック・デリダ「諸々の国際機関がどんなに不完全であろうとも、その評議と決議は、構成員である主権国家、またそうして憲章に署名してきた主権国家によって、尊重されるべきです。たった今、こうした参加に関して、いくつかの「西洋」国家が深刻な失敗をしたことに言及しました。この失敗は少なくともふたつの種類の原因から生じています。
第一には、その失敗は、こうした法システムの公理と原理の構造そのものに、そして公理や原理が制度化された姿である憲章や協定の構造そのものに関係しているでしょう。したがって、省察(私が「脱構築」タイプ)と呼ぶ省察)は公理や原理を問い、創設し直さなくてはなりません。その作業が必然的に出くわさざるをえないアポリアに意気阻喪することなく、公理や原理を終わりなく磨き上げ普遍化しなくてはなりません。
ですが、第二に、その失敗を、アメリカ合衆国イスラエル(米国に支えられているのですが)ほど強力な国家が犯した場合、いかなる阻止的な制裁の対象にもならないという問題があります。国際連合はそうした制裁の力と手段のどちらも持っていません。ですから、国際機関の現行の失敗が新たな組織によってしっかりと実際に罰せられるように、そして本当のことを言えば、前もって予防されるようにするために、可能なあらゆることをする必要があります。(これはとても長期にわたる、大変ですが絶対に必要な任務です。)それが意味するのは、国連(その構造と憲章が修正された―私はここでとくに安全保障理事会のことを考えてます─暁にある国連)のような制度が、実効的な介入力を持つ権限を有さなくてはならず、つまりその決定を実施するのに、裕福で力が強い国民国家潜在的にしろ覇権的な国民国家にもはや依存しなくてもよいのでなくてはならない、ということです。覇権的な国民国家というのものは、みずからの力と利害に従って法を曲げるものですから。ときには、まったくシニカルな仕方で。
今、私が略述している自律的な力を有した国際的な法機関や裁判所という地平が、一見ユートピア的な性格を持っていることは承知しています。私は、法が倫理や政治やその他すべての領域における最終的な切り札だと言っているのではありません。また、力と法のこうした一致(カントが見事に説明したように、この一致は法の概念そのものによって要請されます)は、ユートピア的であるばかりではなくアポリア的でもあります(何故なら、この一致が合意するのは、国民国家の主権を越えながらも、さらには実は民主的な主権を越えながらも─主権がもつ存在-神-論的基盤は脱構築されねばなりません─、それにもかかわらず、普遍的な主権についての、実効あるい自律的な力の権限を有した絶対的な法についての、必ずしも国家的でない新しい形象を私たちは再構築していかなくてはならないからです。)。ですが、私たちのあらゆる決断を導くべきは、この不可能の可能性を信じることであり、実は、知や学や良心の視座からは決定不可能性(決断不可能性)な事柄の可能性を信じることなのだ、と私は信じます。」

*1:但し、この寛容には、日本語で語彙に包摂されている、見守る的な積極性ではなく、「認知・許容はする」「耐えうる」的意味

*2:特殊/普遍啓蒙と自己同一性保持/進化革新に揺れるヨーロッパの二律背反性を考察した『他の岬―ヨーロッパと民主主義』で「それ(尖端の岬=キャップであるヨーロッパ)が自己自身に関係するのは、もはやたんに自己自身との=自己自身にあっての差異の内で、他のキャップとの、キャップの他の縁との差異の内で、おのれを結集することによってではなく、もはやおのれを結集することもできずに開かれることによってである。」とヨーロッパ的普遍の名のもとに、マイノリティな非ヨーロッパ特殊性をも積極的に尊重することとして「歓待」を主張。