歴史認識手法のおさらい

巷で喧伝されるナチ犯罪否定論の主な内容とは、大体以下のようなものになるだろうか。

歴史学の研究現状では、1〜6までは即下に否定される。7については、確かにヒトラーが直接指示した資料は存在しておらず、ヒトラーの意志をどう見るかは学者によって分かれるところだが、ホロコースト政策の展開は、ヒトラーは直接、ヒムラーやハイドリヒなどに口頭命令を発するか、彼らが提案した具体策に承認を与え、鼓舞しなから関与したとの点では、研究者分析は共通している。したがって、7をもってしては、ヒトラー無謬説またはナチ犯罪否定論の論拠となり得ない。と、いうところが、大方の(思想やファンタジーとしてではなく)実証科学としての歴史見解ではないだろうか。

このようないわゆる歴史修正論者の論法には、特徴的な幾つかの問題行為がある。

  • A.オーラルヒストリーの全面否定
    証言はどれも嘘か作り話。被害者証言は矛盾して出鱈目で、加害者証言は拷問のもとで引き出されたので、公正中立でない。
  • B.資料の否定
    反論に供される資料は、捏造されたもの、もしくは一読するに足らない「資格/資質」のものと、その内容プロセス・論旨如何を問わずに頭ごなしに断定する。
  • C.資料の恣意的な選択
    一次資料ではなく、信奉する党派色濃い著作者ばかりから引用する。
  • D.資料の恣意的な使用
    資料そのものの改竄。一部をもって全体とするような、文脈を無視した歪曲・断片化。政治思想理念と史実の混同。

Aのオーラルヒストリーをどう取り扱うかであるが、これはDの資料「断片化」と関連がある。いかなる証言も、資料同様それは多角的に検証されるべきものであるから、証言内容は逐次傍証を必要とするのである。とかく人の証言というものは、対面相手によっても揺れが出る場合が多い為、その各資料突き合わせの結果、完全一致する箇所と、曖昧で不完全な所、またはまったく相反する点など、不明な点は不問とする慎重かつ厳格な検証を経たうえの判断で、論旨に取り入れられるのである。「○○が△といった」から「△が正しい」のではないし、反対に「○○が△といわなかった」からとて「△がなかった」という論旨を導きだすのは、無理筋なのである。
これは、党派の上下右左を問わない。たとえその主張が思想信条的に「正しい」と考えられる王道筋であっても、そのプロセスに於いてこうした問題があるならば、学問的にその帰結は牽強付会であり、「正しい」のでもなく、手法的にも適切ともいえない。目的=主張と手段=手法の関係は、それが予め決定された目的に対して、適切(有効)か不適かどうかという、ミニマムなプロセスにダケ問題となることであり、目的は手段を正統化しないし、その反対、手段も目的をなんら正統化しないからだ。手法=分析の客観性の基準は、カール・ポパーのいう「最善の努力にもかかわらずそれを反証できない」に置く。
また、問題提起として範囲を区切って分析・討議することは実際的であり、かつその方法論自体間違っている話ではない。が、かといって、その区分け=<狭義の前提>と、より包括的な<広義の前提>では、帰結内容が180度違ってくるような論旨、狭義部分と広義・全体の整合性が取れない=スジが通っていない帰結であるならば、それが必要とした「前提」の選択方法そのものが、構成・プロセスとして不適格で、それを骨子として導き出された主張は問題がある。<広義の前提>では論旨を導けないとして、恣意的に論争家があえてやるその「使い分け」「切り分け」「分離」「分断」作業による全体ミスリードを誘うそれは、二律背反=ダブルスタンダード、時に、二枚舌、風見鶏とも称される策略的な不実行為なのである。><狭義の前提>を根拠に慰安婦問題否定した安倍普三の説など

こうした連中にとってはある話題についてともかくもなんらかの仮説を見つけるだけで十分なのだ。もうそれだけで熱く燃えてしまい、事柄がわかったと思いこむのである。ある意見を持つということは彼らにとってはもうそれだけで、その見解にファナティックに熱狂することであり、それを信念として心に宿すことなのだ。はっきりしない問題に際して彼らは、説明らしく思えるような思いつきが頭の中に浮かぶと、もう熱中してしまう。特に政治の領域ではそのことから、最悪の結果がしょっちゅう生じている。
丁寧に見ると、今でも教養人の大部分は、思想家から確信以外のなにものも望んでいないようであり、まさにこの確信なるものを渇望しているのだ。
彼らはある見解に引きさらって欲しいのだし、それによって力の増大を感じ取りたいのである。

フリードリッヒ・ニーチェ人間的、あまりに人間的な