ナチスの人種選別規定と運用

ナチスの人種差別法とは、1935年制定の「ニュルンベルク法」(ライヒ国旗法/公民法/ドイツ血と名誉を守る法の総称)を指す。その上で38年と39年に2つの反ユダヤ法が制定された。本文だけ読むと、ドイツ人とユダヤ人しか規定していないように読め、これを「反ユダヤ法」として記述してる歴史本も多いので、それを念頭に、ナチス人種差別=ユダヤ人廃絶のみと考えてしまう向きが多いのであろう。しかし、その法体系で規定されていたのは、なにもユダヤ人だけではないのである。
「公民法」で、公民とは「ドイツ人の血およびこれに類した血を有する国家所属員」と定義し、これに付随する施行令&注解書で、ドイツ人に類した血を有する国家所属員は、「ユダヤ人とジプシー(ロマ)とを除くヨーロッパ民族」と、規定している。
「ドイツ血と名誉を守る法」は、「ユダヤ人とドイツ人およびこれに類した血を有する者」の婚姻・婚外交渉禁止と、「ユダヤ色を提示」が義務づけられ、罰則規定も設けられた。これに付随する命令書で、祖父母4人中、全員ユダヤ人な場合を<純潔ユダヤ人>、3人が含まれている場合を<混血ユダヤ人>第一級混血者、ユダヤ人2人が含まれていると<半ユダヤ人>第二級混血者、1人のユダヤ人が含まれると<4分の1ユダヤ人>第三級混血者と規定した。ジプシー(ロマ)は、曾祖父母8人中全員ジプシーである場合<純潔ジプシー>、1人でもジプシーが含まれていると<混血ジプシー>とされた。
この規定に則り、市民権を剥奪され収容所送りとなる対象者は、ユダヤは純潔&第一級混血者、ロマはジブシー認定者全員と、ライヒ宰相府の見解を踏まえてSD(親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒが決定したという。6歳以上のユダヤ人の着衣に義務づけられた黄色い「ダビデの星」、ロマのそれは「ツィゴイナー」と書かれた黄色い腕章であった。また、アーリア人(ゲルマン系北方民族)と、<異人種の血統>とされたユダヤ人・ジプシー・黒人との婚姻・婚外交渉が禁止され、違反者は<人種恥辱罪>あるいは<血の罪>という罪状名で晒し者となるか収容所に送られた。
何よりもドイツ人(アーリア民族)の血統を守ることが第一であるナチスにとって、地域周辺住民との差異は、ドイツとの遠近によって図られた。従って、ドイツ・ユダヤ人を東部へ集団移動させる際に、該当地域に集められていたスラブ系ユダヤ/ロマは「ドイツ血統」を考慮する必要がないので、ためらわず集団虐殺したということが生じた。また食糧事情が逼迫した地域でのポーランド人などのスラブ系に対しては、飢死させては「人道上」問題があるとして、銃殺がとられた。
最初の虐殺方法は殆どが銃殺だったが、射撃執行人たちがそれに付随した断末魔の阿鼻叫喚で、心身障害になったり、自殺する者が多発したのである。しかし、最も残虐だと見られた婦女子射殺は、親ドイツな現地人などに行わせたりしてた。そこで、殺戮に直接手だししない・死に至る瞬間を見なくて済む方法として、排ガスを引き込んだガス車が考案・実施された。
1941年12月精神病入院患者で試験された後、本格的なゲットー住民への抹殺運用は、42年1月4600人のロマが最初であった。その延長戦上で、一酸化炭素より最も効率良い手段改良法として、チクロンB使用ガス室となった。1941年チクロンB実験結果を直後に現場検証したルドルフ・ヘスは、一酸化炭素中毒死と違って「何の硬直もない」「きれいな死体」を見て「ほっとした」そうだ。ヘスにとっては、チクロンB使用は「人道的」に洗練された方法なのであった。
ゲッツ・アリー『最終解決―民族移動とヨーロッパのユダヤ人殺害』では、ナチスの人種絶滅政策を、特定集団を動かすことで生まれる空間確保、ドイツ人のための「生存権」拡大、東欧に散逸したドイツ系住民「民族ドイツ人」を、「帰還」させて民族集中させる政策と三位一体をなして進行したことを、資料から浮かびあがさせる。

歴史発展の主体を集団としての種に求める人種主義は、種の存続のために個人の犠牲を強いる。人種主義は人間の評価を遺伝形質の価値によって差異化、階層化するが、価値基準そのものは個人への強制力をもつ国家から導きだされる。それゆえ人種主義は個人の自然権を疑問視し、異質なものの排除の要求をひそませている。ヒトラーがその処遇にほとんど関心を示さなかったシンティ・ロマをナチ体制が絶滅の対象にしたことは、ナチ・ドイツの人種主義の本質を物語っている。シンテイィ・ロマは「異人種」の烙印を押されたうえに、「生物犯罪学」の論理に従って抹殺されたのである。

石田勇治『過去の克服―ヒトラー後のドイツ

ホロコースト後のロマについてid:hizzz:20090309