でもデモ。

最近の米国の後乱心とそれに追随する日本の構図で、アレコレ問題多発して、ネタのタネは山もりで運動業界の方々は、毎週末なんやかんやデモやイベで意気揚々血気盛んなのかと思いきや、、、、どーも、そうでもないらしい。

人に「危険」な人とは見られたくない、排他的で狭隘な「市民」性への固執が、戦略と結果を重視するマーケティング的思考と絡まりあっている。
…ときどき「○○古いっすよね」(○○がデモとか琴線に触れる場合だが)とかスカされるときだけはキレてしまう。なぜか分からないが、本当に嫌いなのだ、その手の「尊大」さが。
…右であれ左であれ、マーケティング的思考は、どんなにセグメント化された市場を狙っていても徹底的にマジョリティ志向である。つまり短期間でなるべく多くの効果=結果をあげるか、そうでなければ無意味という発想だ。マジョリティ(あるいは消費者としてセグメント化されたマイノリティ)以外の集団性はそもそも存在すらしない。
…少衆、分衆といった八〇年代の知的言説はまさにマーケティングと一体化しながら、集団性をカテゴライズし資本に差し出してみせたが、それは「大衆」という概念を多様化させたようにみえて、そこにあったヤバさ(それを「多数性-マルチチュード」といってもいいかもしれない)を殺菌する過程でもあっただろう。ここに現在の消費社会の論理を身につけた「普通の市民」のおそるべき不寛容も関係してくるのではないか。
ワタクシ的には集合するのではなく、むしろなるべく彼方此方に散って部分部分で繋がる蜘蛛の巣分散な在り方が戦略上もセキュリティ上も好ましいと考えているので、動員を重視し集団の高揚感でもって統括支配する(軍隊的)デモの意義は、問題解決にとっては労力の割には一時的エクスタシー以外はあんまないと判断している。が、やる意義があると思う人がおり、集団の一時的エクスタシーをエネルギーとして必要とするニーズがあるなら各々の自己判断でやればいーことで、それをワタクシごときがどうこういうことでもないとは思うが、しかし、こうした言説でスカされるとちょっちキレてしまう。なぜだかは解っている、自分たちは絶対だという為にいつも必ずを必要とし、他者異者の言葉を聞く耳をもたない「抗議行動」一本やりのその手の「尊大」さが、権力的に見えるからだ。
そうか、やっぱり、デモは効果をあげてないのか。だって、そしたら、「排他的で狭隘な「市民」性」とやらが問題とするなら、そこに向かっての有効なデモをやらかすことを考えないといけないのでは?いやそしたら、いまやってるデモはドコに向かって何のためにやってるんだろう?「排他的で狭隘な「市民」性」を触発してしまって他者異者となったそゆひとびとには、ついぞ意図するメッセージはとどいてないんでそ?そしたらメッセージの出し方/在り方を根底から検証しやり方を交えないかぎり、決してソコにはとどかない、というか、とどかないようなやり方をむしろ頑なに推奨し猛進する、と。多様性とかいってる割に、まさに閉じられた円環そのものぢゃん。
自分たちのデモの有効性のなさは、自分達の方法論ではなくって、世の中のマーケのせい、でつか。なんだかもう、すごい理由。(@@;; いいなぁ〜、世の中のマーケで生活かけて日夜苦闘してる人々に朗報かも。そんな理由で高ビ〜で自己能力不問に出来ちゃう世界があるなんて!相手とか周りが悪いっていってればそれでいいと。人と人とのコミュニケーションってそんなお手軽なモンなんですかねぇ。特に「抗議行動」をデモる程、解りあえないような他者異者との繋がり方って。。。その拘ってるデモと市民の捉え方が「古くさい」マーケ手法そのものだっちうのに、どーして気づかないのか。なんだか、ホントにわかんないや。そいで、「なぜか分からないが、本当に嫌い」って感情的なことで処理していいのかな?だって、わかるようなデモンストレーションをしないんだから。だいだい効果をあげないデモンストレーションってナニ?あ、路上や公園で色々やってる単なるパフォーマンスか、なんちゃってアーティストなくりえいちぃぶかな。それなら、市民がなんだかんだと、そんなどーでもいいひと達のことをぐだぐだ言わずに黙々とやればいいぢゃん。やることに自分が意義を見出しているのだから。それなのに、文句いう「客」(=自分たちが喪失した市民)のほうが悪いって「キレ」ちゃうのか。それって、わかりあわなくていいってコトか。自分たちダケは解っているからそれでいいって。なんだかな〜。
いやー、デモっていちおう開かれた「大衆運動」だと思ってたんだけどな、昨今はどうやら違うのねん。おそるべき不寛容は、業界用語&術語を振回して一人ごちするか、頑なになる、そゆトコにしか活路を見出せないセクト運動(マーケがセグメントしたと言いつつ、「市民」を自分たちをセグメントしまくってる自分たちのその視線/立ち位置はナンだっつーの?まあ、だからこそ「してやられ」敗北感でいきりたってんだろうけどね)のあり方そのものだ。そしてね、もう、単純な一極支配は成り立たず、成り立たないが故に普通の市民なるものがいかにヤバいかということを認知してんのなら、尚更、そゆものに立ち向かい切り込んで行くテク(マーケ等)が必要なんでないの。マーケったって色々あるんだけどね、ひとつ付け加えるとマーケ=技術手段がセグメントするんぢゃあないが。そんなみそくそに多様性を閉じて行き場無くしたかのように悲鳴あげててどーするよ?
そうやって、御説どおり普通の市民とやらは普通の不寛容で、運動側は多様性の不寛容でキレてコジレて排他的になり、それぞれの方法論の閉じた円環の中で頑なに保守化してしまってお互いにルートを立ちきってその後にナニが残るというのかねぇ。いまホントに必要なコトは、そんないともたやすくギャーギャーと断線=キレて仲間内の結束を固めて孤立すること(そしてそれこそ「体制」とやらの思う壷なんで)なんぢゃなくって、むしろ逆に、マーケだろーが、伝統芸能と化した古くさいデモだろーが、とにかくあるモン何でも使って、したたかにいろんなルート(それこそ多様性)で複数型に(同士ぢゃなくって)他者異者と繋がってくコミュニケーションなんぢゃないの?
御説のマーケ万能論なんてまさに80年代で終わって巨額の不良債券かかえて企業は退場をよぎなくされてんのにもかかわらず、んなコトを周回遅れで持ちだして今さらながらに延命するのはどうか。今のP2Pの時代にカスタマイズの余地を許さない単一同調抵抗運動の在り方なんてただただ息苦しいばかり。違うからダメなんぢゃなくって、むしろ違うから良いという多少ソリが悪くて(そんなコトはコミュニケーション上よくあるコトだし)、2〜3琴線にふれてキレても大丈夫なようにネ。

ポップであること
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