ダサい。

おしゃれって、似あわない格好はしない。似あうポイントを見いだす。要はこの2点なんざんす。巷のファッションリーダーとか言われてる人々もこの法則をハズすと無様。梅宮アンナのピンクの古典柄振袖とか浜崎あゆみのブルガリ+Aラインイブニングとかね。着物だの宝石だののフォーマルつーのは、それが持つ意匠を自分が凌駕しないと大抵チンケになる。まあ、「ピュアな自分」でありたい自分さがしの教祖なおふたりだから、似あう筈ないよ。生理や身体はそれこそピュア(大爆笑)正直なんで、表面の形を整え気分はフォーマルモードでも、ありたいマイナス方向に矯正されてる(苦笑)身体が真っ正面から創り込む正統に耐えられない。当然「自分らしい」立ち振る舞いはどうにも立ち行かない。借りてきた猫、ダサダサ。
個のスタンスというもんがまったくないままに無自覚にフォーマルを着て、漠然と自己表現だのアバンギャルドとかいってる単純だとさー、ただの学芸会か俗悪な悲惨しかない。目的が「挑戦」することに意義があるでだいだいいつも勢力を使い果たして終わってるからさ、エントリーした位では伝統はへでもなくって、自分の底の浅さを露呈し伝統を補強して惨敗するケース多し。一筋縄でいかないトコを脈々と生き延びてパワーつけてきたからこそのフォーマル、なんだったりする。
「ひとは外見ぢゃあない、内面だ。」っていい古されたコトバだけど、うっそでー。色々積み重ねて洗練された故に身体に一番遠い装飾品から一番生身に近い下着に至るまで、装うってことはそのひとの姿勢がドコに在るかを現して、曝している。いつもフォーマルをずりおちそうな顔前位置でのってる帽子らしき丸で死守するがごとき某人をみれば、ああホントに意味ダケに生かされてる象徴なんだなって思うし、セオリーどおりトレンドに倣いすぎてかえってツルンとしすぎな人は、ラフって世界が解らないか自身がダダ漏れる世界を怖がって禁忌してるんだなーってことで。休日はステテコorジャージでせいぜいゴルフウェアしか思い付かないヲヤヂとか、ああ、こいつの身体は背広とダダ漏れ生理にしかないんだなー、ていうことだし。ねんがら年中格好にかまわないのは、自身がどーでもいいか他人なんてどーでもいいのかが過ぎて己を知らなくしたんだろーし。。。
てなことで、「ダサい」というのは、トレンドや高いブランド品を持つとか、美人になるとか、知識を持つとか、体形がよくなれば解消される問題でなく、それだけ今まで自分が己を知らず、価値ある多彩な世界を見いだして来ていないかっていう在り様、リトルな見識のことだったりする。
そういう見識狭いままにいくら物量(金や知識)かけようともそれは所詮ノイズを増やしてることなんで、あっちふらふらこっちふらふらやればやるほどにチープ、貧乏クサくて、ただただダサいんだよ〜ん。