〈私〉→〈個〉→〈公〉というバリア区分

まあ、んなコトいってるとドコからか「ネオリベ」って石が飛んでくるんだろうなぁ。最近「自由論」とか「不自由論」とかがハヤリのようだし。
「ドコに在ってもOK」というネットのドコにどのくらい居るのか逝くのかを決定する自由はその当人にある。無論そういう権利をあえて行使しようとしないという選択をする自由も同等に。
リンクフリーは、クリエイティブ・コモンズのいちばんささやかで身近部分。コモンズは理念としては解していても、いざ自分がそういう立場に立ったときの「責任」という重圧に耐えられない、(まだ誰もナニもいってないけど)もしそういう風に見られるんなら耐えられない、そういうスキルの欠落ということでしょうかね。
社会的影響力をもったサイトが振りかざすリンク権限行使と、1つ目のケースな困ったちゃんとは、ネット上という〈公〉なクセに〈私〉的権限遵守を他者責務としようとする無責任なふるまいとしては同じだけど、そんな困ったちゃんを〈公〉にひきずりだすようなマネは「社会的意味」があまりにもない単なる「いじめ」となってしまうからそっとしとこということは、河内長野ゴスロリ高1サイトのさわぎなんかでも言えることだ。
先に「村の中にある家父長制」としたが、この場合村の外が〈公〉で、村の家父長制が技術的なシステムを咀嚼し〈個〉の責任や義務的なものを代行し、その保護の中で〈私〉たちが戯れるということ。
しかしその優しさは本当にどこまで優しいといえるのかどうか。結局は、その「イタさ」と「キモさ」はシカトという点に於ては、荒し等のDQNを放置プレイするのと同じことかもしれない。道徳的常識的かつソツないクールなふるまいとして。誰でも自己表出可能という平地は、それだけ評価の矢面=〈公〉に立脚していく〈個〉がナイと〈私〉を守れないということ。そういうことに自覚的でないと、少し話題になってた某センセエのBlog閉鎖→移動のように、お高尚なコミュニケーション知識がタンとあっても、ちょっとした「非難の矢面」であたふたしたりするね。
今、盛んに議論されている技術的なシステムづくりや人的配慮といった外側の「おもいやり」「配慮」というのは、正論だしとても美しいことだけど、だけど、一方的な「ラク」や「お便利」そればかり追求して使用側のスタンスを曖昧にしつづけること自体が、ネット&PC当初の思想でもあったバリアフリーDIYセカイ系な完璧主義が、そこからはみ出すマージナルをなんとかしようとして、いつのまにかローカライズな囲いにおしこんで、自由意志に拠らないDQN化された人々が自分たちはそんなトコにいたい訳じゃないとばかりに本当のDQN化となってしまう根本なのかもしれない。(だから、いつもソレとは違う=オルタとしてのスノッブも又、出現するんだけど。)