〈女〉という欲望のカタチ

〈女〉という思想は、女性が考えてはぐくんできたもんぢゃなく、はっきりいって元々男性のアタマの中にしか存在しない。だから、世にいう男女論なるものはいつも一方の当事者の不興をかう。世間=〈男〉社会のいう〈女〉というのは、男性の他者になるものではなく、男性の一部であるものといえよう。自分の一部であるが自分の責任を持たなくていい欲望。それを〈女〉と命名して、それを女性に押付けて責任転化したのではないか、と。その欲望にはもうひとつ別の言い方が在る。「コントロール不能の下半身」だ。男性がこの下半身=快楽を掌握し完全制圧することこそ大人の〈男〉たるものの証明とされている。してみると、〈女〉とは「コントロール不能の下半身」の欲望のひとつのカタチとして認知される。
したから、下半身の欲望=快楽=〈女〉=セクシャリティであり、〈女〉はそれ以上でもそれ以外でもない。セクシャリティ以外の現れ方をする女性はこうしてすべてオミット、いないこともしくは〈女〉でないと排除される。こうして、男社会は他者をたやすく排除し、同類項での〈私〉的空間に戯れる。