オレ様

しかしンナとこにも容赦なく近代はやってくる。大人の〈男〉の定義が変化したんである。「平等」=他者存在に拮抗/対峙していく自律的な〈個〉で在りつづけるという市民の近代要請は、それまで都合の悪い他者は全ていないことと抑圧=マチズモしてぽやぽやと集団的〈私〉でOKだった村民にとっては、とても非情なものである。なにしろ〈公〉というのは、〈私〉のあずかりしれぬトコにある「お上」であり、それこそ一番遠い他者そのものだったのに、隣の同類項は他者であり、自分とは違うというのである。そんな他者の共同体それが市民社会だというのである。そうして他者と違う自分こそが大人の〈男〉たる所以とかなってくると、さぁ大変。同類ってことは皆おんなじ(自他の区別ナシ)ってことだから、安心して悩んだり考えたりする必要がなかったのに(悩んだり考えたりするのは〈公〉たるお上のやること)、「アタシ」を成り立たせる為には手前でこしらえろという。わかんねぇよ、どうしよう…。
キーワードは「アタシ」というコトに気づいたのはいーが、ところが自分という実績がナイにもかかわらず、自分を位置づけなくっちゃならない。手っ取り早いのは、自分を位置づけてくれる身近な承認=支配者を探すことだ。それは大抵は親なんだけど、今は小子家族だから意図も簡単に他者とは違う「特別なアタシ」が手に入る。子供である「アタシ」はその弱い立場をなんとかしようとして、「アタシ」が一番まともで変なのは他者という自他の区別にたどりついて、ようやっと素のまんまの「アタシ」というものの着地をする。その次に目がいくのは世間であるが、上記したとおりいまだ〈男〉社会をもってして自明とする為、男性にとってなんだかんだいっても世界とは多少自分とは違う同類項で出来上がってる安全なトコになる。こうして幼児的「特別なアタシ」は、第二次成長期で封建的〈男〉社会で洗浄され表面的にはホドホドに落ち着いたりもするが、なんてったって世界は同類項でいいって仕儀なんだから、「下半身の特別なアタシ」=マチズモは強化される。かくして下半身的〈私〉に目ざめた「特別なアタシ」は、オレ様となり、ちょとダケ違う仲間とたむろすることで居場所の安全を図る。無論ソコには女性の居場所は、ヤリタイ=〈女〉というカタチ以外でしか意識されない。