嘘も方便

うん、だからそんな嘘はキライなの。だからこおんな偽りのアタシぢゃなくって、ホントのアタシになりたいの。。。
「偽りのアタシ」は嘘→嘘だから「偽りのアタシ」を見たくない→見ないものは存在しない→「偽りのアタシ」は見ない→「ホントのアタシ」も見えない→「ホントのアタシ」が実感できない→「ホントのアタシ」になりたい→「ホントのアタシ」になりたい「偽りのアタシ」は、「偽りのアタシ」という「ホントのアタシ」を見ないことにしてるので現在存在しない嘘の「ホントのアタシ」をさがす→自己意識に現れるのは嘘の「ホントのアタシ」ばかり→それは「ホントのアタシ」ぢゃない「偽りのアタシ」→「偽りのアタシ」は嘘… あーヤヤコイ。。。
マジ、ホントにホントの「ホントのアタシ」実感がホントに欲しいなら、まずその「偽りのアタシ」も「ホントのアタシ」と自己容認し、確信犯になることだ。こおんな「偽りのアタシ」も「ホントのアタシ」が内包してるモンなんだけどね。それもこれも全部「ホントのアタシ」であって、「ホントのアタシ」以外になりよーがナイ自己は常に実現中だ。それが偽りかホントか想うのは、事象に対する自己対応方法の自己見解にしかすぎないんで。他者のいる世界で、どうやって自己をすり合わせて活きていくかの手段ひとつなんで、その手段と解釈が「偽り」「ホント」の二つしか思いつかないコトが、そもそものキビシー原因なのである。
他者はそんなアタシの言動が嘘だろうがホントだろうが、他者ゆえにどーでもいーのだ。かくいうアタシだって、アタシとの関係以外の他者なんて、ナニ考えててもどーでもいーのだ。 100人のひとがいれば100人てんでバラバラにアタシ言動を解釈したりしなかったりして消費するんダケで、せいぜいが、そんな言動してるひとが在るというその事象を認知する位なんだ。ソレに耐えられないアタシだから、嘘ついてでもコジレてでも事態回避しようとするんである。無意識(本能?)は希望する「ホントのアタシ」なんかよりゃ、ずーっとずーーーーっと賢いのである。それが嘘、偽り、キタナイつったって、それがどんな突拍子のないコトであろうとも、その瞬間瞬間は確かにそう思うアタシの事実かけがいないもので、至るプロセスの切実な感覚のリアルは唯一で、どー考えてもそんなアタシにはドコにも嘘はナイ。
したら、傲慢強欲になるのでもなく、そう想うアタシはヤな「罪の意識」にさいなまれるのでもなく、そういうヤも豊かな感情/考えのひとつで、ミソクソ併せた事象を我もまた「頂いて」うごめく動物なんだと、そゆ豊かな中間領域にこそ「偽りのアタシ」も「ホントのアタシ」も共存できてるんではないのかな?
確かに、自己と世界が一つに直結したキッパリ明朗な単一絶対世界こそ想像=思想の醍醐味なんだけどね、そう想う脳内世界、無限の内世界、それこそがファンタジーであるという大前提を忘れてはならない。自己ファンタジーはファンタジーとして、それと他者の在る世界と世の中の事象を一緒くたに単純にまぜてしまわないという、知覚の認知の棲み分けに自他の区分=中間領域を〈個〉として、〈私〉と〈公〉の間に意識するということかな。
…さすれば、罪と罰という嘘を自分ついてまでコジレを科して罪ほろぼしをするというエクスキューズ、不安から幾重にも防御線を張り巡らせた嘘にがんじがらめになる自分から、すこしは自由になれるかもよ。