リテラシー

嘘は荒野を駆け巡る、が、しかし、歌にあるよに、折れたタバコの吸い殻(ふ、古い)からでさえワカるときゃワカるもん。
しかしそれが単なる自己の思い込み/妄想かどうかをシビアに検証し判断に役立てる為には、囲込み/封込め/単純スローガンの反復という固定化、思考方法をひとつのプロセスに集中させようとする集団催眠やマインドコントロールオルグやつるし上げや総括のやり方などと反対の方向へ、事象の解釈を多視点をむけるリテラシーを常に発動されていけば、大抵いかにソレが片よったコトであるかが、「変」がひらめいたりもする。世の中や世論が、ひとつの方向へむき出した時程、これは必要なんだけどね。そのひとつが普遍論理と安心をいいたてて耳障りのいい言葉で包括しようというその中に、普遍になる過程で個々の具象を普遍という嘘で馴らした中心に居座っている特異な周辺であるという、偽りであるからだ。
だって、市民だの普通だの普遍だのみんなだのいったって、いったいソレはドコのダレのことよ?普遍をいうその前提とするターゲット自体、特種な個人、特種な周辺でしかありえない。
そういう特種なユートピアを想定夢想するのは構わない。自由だ。しかし、いかな壮大な統一理論なメタ概念/統計といえども、その抽出は所詮主観的なものに過ぎない。そうした脆さを信奉する人が、普遍という名の抽象仮構性を忘れその唯一絶対的正を主張し、自分たちとはちがう立場=他者をいとも簡単に排除/撲滅にかかる。疑心暗鬼、ひとは疑えとゆー信じるか信じないかつーのは、もうこれは個々人の信仰の内観モンダイであって、外観でいえばそもそもひとは解りあえないんである。だから日々の思索が創作が生まれるんであってね。以心伝心で解りあえないからこそ、ハナシをする/ハナシを聞くことが重要なんでね。対峙というのは、その自他の差異に耐え続けることなんでね。しょぼかろうが偉かろうがともかく生の多様性や感情の微細さ応じた複数解が導けなければ、いつまでたっても「解りあえる」の「信用出来ない」だのという一方に拠る一方的暴力は本質的になくならない。
リテラシーの訓練としては、なにかの事象に接したら、常に複数解釈とその検証を幾重にも自己に科すことだ。ま、最低でも、肯定/中庸/否定という必ず3つの予測は立つよね。その思想信条の想いが強ければ強い確信であるなら、尚更ひとは間違う可能性をいつも秘めている。で、結果どれか決断してもそれはその時の暫定状況から導きだした、暫定決断であるといつも認識してることだ。そしていつでも、間違っていたと直感したなら、なおも誤魔化したりイケイケどんどん等で現状維持に勢力を傾け、負債の先送りをするのではなく直ちに元のゼロ地点に立ち戻る思考言動の柔軟性を保っていることが、間ヌケをふせぎ、自分の一部の盲信で他者暴力に巻き込む/巻き込まれることへのストッパー=結界となる。