らしさの転換

70年代の残務処理は、愛と理想を少女マンガを捨てきれないで年を重ねていく世代と共に新しく創刊されるレディスコミック各誌に分散した70年代そのままに律義な職人作家達の手で、挫折したひろみや報われないお蘭や凡庸なその他の「アタシらしさ」の「うじうじ」救済ネタを生産消費している。
10代がターゲットの少女マンガは、80年代に入ると定番の「アタシなんか〈女〉らしくないし…」という凡庸自己への「うじうじ」や相手に対する「もじもじ」は、「ドジでのろまな亀」そんな君が素敵だよというメッセージ(TVドラマ『スチュワーデス物語』)をもって、ラブコメで全面肯定されだす。で、実際に「アタシなんて…」を捨ててみたらホントに亀だナニもなかったとパニくったのが80年代後半で、リアルな愛を取り戻そうと、ヤンキーの恋愛を描いた紡木たくホットロード』で少女であり続けることを止める。マンガの世界を次々現実化したバブルで現実がきらびやかになると、少女マンガと半径数メートルの世界以外の「アタシ」探しが可能になったことだし、ここいらで完全に「普通少女」というのも幻像だというのが、性交したらもう少女=自由でいられないかもと恐れる少女の果てにあったsex感も交流テクの一形態(どーってことないや)という共有認識になってきて、「アタシらしさ」と交代しだした時期でないかなぁ。そうなった人々は、もはや自分にとってリアリティのない少女マンガは、一過性の娯楽で個人内部とは交わらず卒業していく。
その〈女〉をとったカラッポをあらぬ前世ファンタジーとかを使って「特別なアタシ」演出する不思議ちゃんも、このころから出だしたような覚えがあるなぁ。sexも恋愛もどーってことなかったウソという現実のそんな空虚感や自虐趣僻は、岡崎京子達がレディコミ/女性誌で盛んに展開しはじめる。
「うじうじ」すればするだけ損を受けて10代向けの少女マンガは90年代にはいると、「うじうじ」葛藤はもはやハナシの主題にはならず、いかに相手をGetするかという能動、「アタシ」の売込みにその全心血がそそがれる。
なんだかんだお高尚なコトid:hizzz:20031010#p3いってても結局はアタシのこのちょーマブボディに触れたい一心なんぢゃん、そうやって〈男〉ばっかり「アタシ」を楽しんでさ、なんでアタシばっかり悩んでなきゃなんないのよ。こっちで独り「うじうじ」してんのなんかヴァッカまるだし。あとは、どーやって「アタシ」を〈男〉にみせびがかしてアタシが楽しむか。女の子だったらその女の子ぶりをトコトンたのしまなくっちゃあ!