ロマンス

別にボーボワール等ひもとかんでも、女訓「女のたしなみ」的伝統の言伝えで、〈女〉は自明なんかじゃなく「〈女〉はヤルもの」つーのは女性パンピーに古くから意識されてた。それらは、〈女〉の表象=カタチであって、決してイズムでない。「亭主元気で留守がいー」だし。だから「〈女〉らしく」。この場合、力点は〈女〉ではなく「らしく」。だって、〈女〉に内面なんか不要って、世間的にはされてるから。「らしく」ダケしとけば、あとは自由。決して内面を規定されたり侵食される恐れはなかった。
それが戦後、焼け跡の中でケナゲに「父の娘」であった中・上流階級の〈女〉が近代以降の高等教育を受け、〈男〉並の知識を身に付け、内面というものを意識した。そしてそれの獲得に、〈女〉を越える新しい理想:学生運動、〈男〉を越える新しい理想-ウーマンリブ…という乙女達の切ない切ないロマンスなんだよね。
しかしそんなケナゲをダシにして、敗戦後の乙女ロマンス、全共闘後のウーマンリブ、オウムでニューアカ敗北後のブルセラ少女、デフレ不況の不思議元気少女、最近のジャケ買いブンガク少女騒動、、、と〈男〉のフンズマリ時に必ず都合良い無責任な〈女〉=「父の娘」ネタに自己回復の間をつないで、放りだすということもその切なさに輪をかけてるんだけど。
今また、昭和30年代懐古ブームと共に、その戦後の中原淳一的な乙女/和装(古着)がブームになってるのを、かっての全共闘乙女達は、どう感じてるんだろう?