降りる自由…と、いってみるテスト。

…てなハナシがなんか盛り上がってるけど、ワタクシはなんだか読めば読むほど、盛り下がるんだけどなぁ。これってそんなに盛り上がらなければならないハナシな訳?
id:hazumaさんが、徴兵制を視野にいれた戦争問題をやり取りする国家間となんらクロスすることのない?自分たちの日常を守る為に「社会から降りる自由」というのを提唱している。そしてその「降りる自由」許さず全員参加を強制するのが「ネオリベラリズム」ということらしい。
やー、昔から社会派然としてそういうこという人がいるんだけど、そんなの降りたきゃサッサと降りればいいんだし、昔から多くのひとは実際にそうしてきた。それこそ自己判断自己責任で。なんで自分が降りるのにそんなこと、いちいち自己宣伝してまわって他者容認とりつけなくっちゃ自分は降りられないって回りくどいことにしちゃうんだ?id:hizzz:20031209#p4単なる、〈個〉の自律ってことがなんでそんなに大仰なことになってしまうのか。
僕の「無責任」こそを社会は担保せよ!そして「徴兵制を視野にいれた戦争問題をやり取りする国家間」にそういう僕を社会参画させろ!っていってるのかなー?社会から降りたい降りたいって語彙上でいってるんだけど、その真意はそんな降りる自由な僕を無視せず議論にまぜろって、むしろ全然降りてない。いや、降りる気はないことを占す為に、降りた説明、そういうことをいう必要がある。そしてそれを盾に議論の超法規視点で延々自己誇示しつづける為に、決して降りることはない。
いやーホント「無責任」の無責任って各方面に責任を引受けてもらう必要がある大変なもんなんすね。ワタクシとってもそんなことする気力がナイですから「無責任」の自己責任で身軽にやっときますぅ。
この手の前提論を総ての問題解決の前にブツひとは、どーやらこの「自己判断自己責任」が一番の敵みたいなのだ。しかし、この「ネオリベラリズム」って誰がいってんのかよー解らんけど、「責任」ってイズムがそーさせる訳?
しかしなー、この手を、「徴兵制を視野にいれた戦争問題をやり取りする国家間」とやらが真っ先につかったらどーすんだろ?バケツでウランとか狂牛病さわぎとかの昨今の様々の社会事件とかの「不作為」の数々、そんなのバッカだもんなぁ。そうすると、収益第一主義の企業の弱者社員への過酷なシメツケによるウンヌン、と。どうやらその不祥事は総て企業の責任らしい。あ、ぢゃあ企業には「降りる自由」がないんだ。でも、そ、それって特権を言立てるオレ様とどう違うんだろう。
議論内容とは関係なく、予め責任全面回避しておく手段として自己プレゼンスを無制限特権として担保しておくってことかな。でもそんな煙幕貼りあった論者同士の建前議論って、なんか社会的意味あんの?議論して建設的な結果に達することが出来るのか?議論の場にいること自体を目的とされても、少なくとも問題解決をしようと責任負担する意志ある人々にとってはじゃまでしかないと思うなぁ。大体、ラチあかないから「責任者出てこい!」ってお決まりのフレーズになる訳でねぇ。なんだか。。。
この議論に対してid:Ririkaさんが、「ガクモンの不自由。」とズバリ。ちょー明快。パチパチ。