原っぱの論理

今まで存在しなかったネットに対して、2chなどの掲示板等のフレーミングがクローズアップされるに従って、ワケワカなDQNってウザイから面倒臭い議論なんかいっさいヤンピにして、お互いにクールなクールな情報交換オンリーにしとこと。社会派な方々の共有意識として、ネットでは「議論不可」とやはりリアルなフェイスtoフェイスがコミュニケーションの基本という、ネット・バックラッシュともいうべき流れがおき、それが定着したかのようになっている。
この匿名によるフレーミング=荒し行為も、先の東理論で見てみれば、その場にいた人々が、議論本筋からそれた罵倒文言とかアスキーアートを動員して「降りる自由」を次々宣言してまわっているってことにすぎないってことねん。しかしそゆ時には、ネオリベ退散教の人々も、何故か「顔の見える責任ある関係」と突然ガリガリとおっしゃるんだよな〜。ふにゃあ。。。
ワタクシとしては、顔のあるなしに関らず、なんらかの行為をすりゃあ、その責任は必ず発生して、そいつが特定固有出来るか出来ないかにってことにすぎない。しかし、発言者でなく発言内容が議論としては重要ならは、議論に関係ない「荒しは放置プレイ」でスルーすりゃあいー、それは自分も議論に関係ない荒しから「降りる自由」をつかって。
しかし、そう出来ない。そこには発言内容よりも発言者自体を重視するという思考が常に前提としてあるからだ。前提のすり合わせが出来てないとハナシにならないという建前で、次々と「他者」が選別排除されていき、結果、同類項しか残らなくなるというハメに。id:hizzz:20040109、id:hizzz:20040119でカキコしたとおり、今、リアルでもネットでもそんな棲み分け「島宇宙」状態が進んで、異価値観・異立場交流が難しくなっている。
で、ホントは「ドコに在っても自由」なネットこそこうしたことに一番身軽にアクセス出来うるキッカケを創れるはずなのに、そうした可能性は、先のネットセオリーでいとも簡単に、幾層にも選別/階級化され、DQNを封じ込めたつもりで自分たちのセカイに封じ込められていく。
じゃあ、一体、リアルは元々そんなに自由闊達だったのか?リアルだってワケワカはワケワカな言動をしてる。ただ、見てみないフリとか頭から無視とかそういうジャッジを皆してるだけで、しかしネットだと総てのカキコが文字として均等に存在記録されるので、その存在認知せざるをえなくて不快ってなだけだ。リアルだと実り多いと、そう信じて疑わないのは、「降りる自由」特権を主張出来うる強者達の論理である。経歴地位や権力やハッタリや容姿等の態度に含ませた言語外の威圧イメージで優位を約束された無自覚なそうした強者達に、弱者ぶりっこな「限界性」=「期待しないでくれ」という絶望と断絶ばかりをあらかじめお手続きとしてたたきつけられ、殆どくるなといってるようなもん。こうした人のいう「社会」って、自己プレゼンスを誇示する舞台でしかないのね〜。しかも完全同期=オフでつむるのが正としたら、完全同期を(様々な事情で)出来ない全国各地の多くの(「降りる自由」もなにも)最初から場にも上げて貰えない人々は、まったくもってオミソのオミソと。
平場からサークルへコアな同人へという動きは凝縮&高度化する物事を扱うのには大変効率がいい。でもその逆って実行アイデアがついぞないなら、凝縮&高度化効率社会に反対する政治運動やデモってドコむいてるのだろう。いつも上(敵)しか意識してないから「大衆」=現在ってのを見失う運動の現在なのではないかな。
これに対して、id:narkoさんが、id:narko:20040212、 id:narko:20040222で橋本治の言う「原っぱ」を引いて、「閉じないコミュニティ」を提唱されてる。一番喪失してきてることだけど。そう願う人が数人そろえば、それは既に始まりだしてるものだったりもする。なんだか、なんだか、って思うこの頃、Ririkaさんのいう、自分の「縁側」をあけて、よその「縁側」にお邪魔したりということから、narkoさん的な横町の「原っぱ」的なものにちょっと集ったり、他の遠方に出掛けてみたり、自分トコでぐっと集中してみたり、、、ということが出来れば、そんな自分から始める風通しのよさがあれば「降りる自由」なんてことを宣言して、戻ってくるのに一苦労するそのヤヤコシイ身重なリスクは、シンプルに避けられるんじゃないのかな。違うのかなー?