コンビニ思考

なにかを説明するのに、先達のキヤッチフレーズを利用するのは、ちょー便利。ワタクシもひとの御庭/縁側(コメント欄)に御邪魔する時は、こうしてぐだぐだカキコするのも冗長だから、そゆモンを知ったかブーして代用してしまう。そうするとなんか自分の言ってるコトが格上げ認証された気になるし、「○○も言ってんぢゃん」って責任も押付けられる。いと便利、うほうほ。
しかしそうした行為が普通となると、「行為者資質」「想定ニーズ」「根拠ルーツ」そんなことはそもそも「内容」の補助的なモンにすぎないのに、いつのまにかその補助に自己主張を全面異存し、その背景談義ばかりクローズアップ(「文脈読み」というのかな)されすぎて、肝心の「中身」がドッカいってしまう主体ヌキ中ヌキ談義って多いよ。まーそれがスライドしてくにまかせる床屋談義って、そゆモンなんだけど。
問題は、んな主語ヌキ談義でコンセンサスがつくられても、それはさー、特定の「行為者資質/想定ニーズ/根拠ルーツ」という前提条件のついたワク内でやっとこさ成立してるセカイ系話ということを忘れちゃあいけないよ。
公共、企業、学校、コミュニティ、お便利コンビニライフに到る迄、建前/理念=言ってるコトは、演繹的に最良のものを選び出す最適化の原理で貫かれてるけど、しかし実際は処理手間の最短=効率を最優先し、当人も十分その情報&知識があっても折角の知識情報は考慮されず狭い範囲の合理化を突発的に性急に行って=やってるコト、結果、全体として非合理にしてしまうってことがあるから。そういうことになってないか、ってことは常に外部検証され「論理」は練り直すということがないと、そうした晒されることのない「正論」は圧倒的にマズイ。