処世術

そうすると、すべからくまず「行為者資質/想定ニーズ/根拠ルーツ」を厳格に規定してかかるべきであるということになって、そうした文章読本作法にのっとってないカキコは、すべてオミットになる、と。ぎーーーーーアタマかてー。
そうして均した同じ語彙で同じコトを同じ配慮をしつつ同じプロセスで考えようとする連中は、結果も似たり寄ったり多数の類似で全てがタコツボ論理な同人化、棲み分けという篭りに一斉に走り出す、と。そしてその中で、「ねー、オレ達って正しいね」「ねー」っていって言いあってたってさぁ。。。それってさー、ちょー変!ってホントに1ミリも思わないのかなぁ〜。ワタクシはそんな共感べったり同調ゲ〜ムには、息苦しさを感じるので、参画するのはヤだな。奇抜なコトをいうことばかりがいいことだとするオレ強度も、息苦しい。そんな中で同じ趣旨のひとが見付かる嬉しさってのは、すごくある。しかし、それはたまたまある接点で共有することがあるということで、そこに至る迄のルーツとそこから発展していく自己の課題は違ってて当たり前なのだ。違うからこそ、ある一点でシンクロできることが楽しいんだしね〜。ハナシも盛り上がるってモンよ。
しかし、ルーツもその帰結も壱でなければ、同じ方向を見なければおかしいってしちゃう「正論」に所属することを目的とした「正しいオレ達」というのは、そういう複数形の〈私〉以外の主体主語主張を持たないから、述語同士のもたれあいとなって、「正論」「対論」という外部思考にその責任を押付けあって、ぐ〜るぐる。いつも誰かの解釈引用を繋げて繋げて…その末の「自分の解釈意見」がはっきりしてこない。
そんな者同志で、社会をたたいたり外部に責任とらせるのも、自分の在り方を考えるよか、てっとり早いし。だって自他と対等でいるより、そんな関係の被害を所有するほうがなにかと楽で便利なんだも〜ん。述語同士で阿吽の呼吸の共依存関係が出来あがる。そしてコトバはどんどん特殊化してくね〜。結局「「ピカッチュウ」と「ピカッピカッチュウ」、このふたつで全部通じる世界」id:hizzz:20031128#p3なんだよね。外部にはワケワカメ。
正しさのルーツも解釈の根拠もすべて外部「正論」にあいのりしとけば、後でそのハナシがどう転ぼうとも、「ピュアに信じたその正しさ」の分ダケ決して傷つくこともないアタシ。…てな一見楽そうな処世術が、コンビニエンス故に結局自分を一番不自由にしてるんぢゃあないのかな?だってそれは、「正論」があらかじめドコかで承認されてナイと、それを必至にお勉強しないとハナシが出来ないってことになるんだもん。
…そんなことの積重ねで、気が付いたら自分のコトバも場も失ってるのって、ゾッとしない?