〈女〉であることの困難

不思議ちゃんとオレ様id:hizzz:20031213でカキコしたように、〈女〉という欲望のカタチは世間=男性のアタマの中にしか存在しない。我々は生まれてからそれをジェンダーとして陰に陽に教育され身体化する。id:hizzz:20031225#p5でカキコしたように、むしろそうした〈女〉として規定されたくないひとが、セクシュアリティを無視して自由になる男性と共有できるオタ趣味、セクシュアリティを自己内でやり取りして自由になる「やおい」等になっていると考えることが出来るのではないだろうか。日常と渡りをつけつつトランスジェンダーするための方策としてのオタク。id:hizzz:20040220
自分たちは女性にも相手してもらえず迫害されてますよーと男性オタクがいったって、世間はとにかく男社会である。女性には相手してもらえなくとも、金稼いで周囲の迷惑にならなければ、一生を趣味ですごすことが可能である。
男性性がなんにつけても自明であるのは、「女オタ」といった場合、男性のオタクと同じ趣味をもってる女性はまずもって意識されない。しかし「やおい」や「ジャニオタ」といったセクシュアリティにこわだわるジャンルをもって「女オタ」とし、性別でオタクすべてを二分する言説を立て、そこに女性をカテゴライズしようとしてしまう。これは、従来の男社会のやってる〈女〉の押付け=マチズモと実は同様なのだ。
世間の押付ける〈女〉からのがれて(ということは世間=〈男〉からのがれるということでもある)自由になりたい女性が、必要とした「やおい」や「ジャニオタ」という中での自己充足であるならば、男性の欲望する「女オタ」に呼応することは、「やおい」や「ジャニオタ」実行中の女性側にとっては、まったく意味がない。
オタクも含めて〈男〉のカタチは数あれど、女性はいつも「性」でひとくくりにされ続けてきた。男性と違って世間で「自立した個人」であることなんか、求められもしない。「女は女らしく」という生き方から自由になるために、「アタシらしく」を一生懸命模索してその「いかにアタシらしいか」を対象をもってして語るのがなによりも重要という「自己実現」の為にオタク行動を必要としてる者に、その逆の〈女〉について語れというのは、なんと理不尽なことか。人生はアタシのままにはならないけれど、一時でも、せめてココロだけでも空想の中で「自立した個人」でありたい当人にとって、「我々、女オタク」を語ることはなんのメリットもないのである。それを当事者女性に他者が要請することは「脅威」、自己世界への侵犯者以外なにものでもない。id:hizzz:20031027のような視線が一番危険だと察知されてヲチャーさえも嫌がられる。