「まなざし」の問題

コメントを受けて追加。
どーも「女オタ」に着目して「視点」をかえて論じて欲しいという要望の中には、「セクシュアリティぬきの女オタ」って主題を立てたいひとがいるみたい。
しかしこの主題、どーーーーーー見ても矛盾してないかな?「女」ってセクシュアリティ以外のなにものでもないぢゃん。「セクシュアリティぬきの女オタ」とは、いったいどゆ存在なのかいな?最初に実際には有りえない自己願望的存在を思い描いて実際の女性オタクの言動を必死にフォローしたって、幻想でしかない。だから、「断片的な理解しかできない」ということに至る。いくら探してもないということは、的確な答えを得る為の問いの立て方が間違ってるという自己検証が必要だ。
セクシュアリティぬきの女オタ」、性別関係ない「オタ」とは何か?それはただの「オタ」ってことなんぢゃないか。もっとツッコメば、そゆ自己のセクシュアリティを自明としてつゆとも疑わない上で繰出される「オタク論」ってそもそも何?今まで語られてきた「オタク論」なるものが、「男オタ論」だったってことになりはしないか。「オタ論」を装った「男オタ論」ってことに。ジェンダーぬきの「女オタ論」、それは「男オタのセクシュアリティ論」ってことにも。
ま、そゆことはkanoseさん自身お気付きになってて、最初の引用のようなことを書かれている訳で、つまりこれは他性に語らせることではなくて、自己のセクシュアリティとして「オタク論」を独占してきた我々〈男〉がその欠落ジェンダーアイデンティティ(及びセクシュアリティ)こそをキチンと語るべきことなんでないかな。つまり、「視点」を変えるべきなのは、そういう論を立証したいという側がすべきことなのであって、ヲチャー対象側に立証側の視点に沿うべく変更を要請するというトンデモ飛躍がそこにあるという大矛盾なんだよなー。


…てなことで、世の中のさまざまな人類学研究をみても、当事者自らが纏めなくても、「女オタ」の置かれた体系的状況分析は、やりたい意志さえあれば、充分出来うるのではと思うだけどなー。