文脈読みの伝統

んな似て蝶やってるのは、オタクだけかぁ?と、あれこれ妄想モードは深まる深まる。
茶の湯なんか知らんなんていってるひとでも、買い物にいくと必ずいっぺんは「手に取って」確かめないと「納得」しないって手合は多い。掛け軸は最初から掛けてあって手に取れないが、あれは元々「巻き絵」。手でもって観賞するのが本来だったんぢゃないかな。
「ちとデカイ耳カキ」=茶杓は、茶人がコリコリ自作して銘や花押入れる自慢の逸品だったりする、手仕事の日本ぶり。
西洋抽象画が「わからない」というひとは多くいるけど、具象画は風景を描いてんだなといかにそのモノが描かれているかを見ればいいのに比べて、抽象画はお題が明確じゃないからそのモノ自体を考えなければならないから、勝手が違って戸惑う。「花鳥風月」だの「山水」だのと「理解方法」が示されてない具体的なモノが描かれてない作品は、見方が「わからない」のではないかな。それで大抵は解釈解説文なるものを読まないと不安でならない。解釈解説文を読んで納得しとく「文脈読み」。
さてさてそんな解釈方法法は、音楽でも映画でも文学でも思想でも、国内では全く同じのような気がするぞ。解釈解説文を読むために何についても批評家を必要とするニーズが、「文脈読み」というお作法じたいに解釈のお手本=定説を求める行為としてあるのかもしれない。
戦後、日本=悪しき伝統はダメって一気にして「花鳥風月」お取上げ!ってことにしたけど、困ったことにその替わりを誰も構築せなんだ。その代わり西欧産伝統をとっかえひっかえして、その輸入者解釈文をお手本に、それを勉強して「わかった」ことにしてるよーにしてるのが多いように見えるんだけど。違うかなー。特に政治的立場にさらされると「文脈読み」はイッキにそこに引きずられる。でしかもその国内にあるルーツさえも「捨てたということにした」を忘れて皆して勘違い大会にあけくれてるとしたら???
でも、そんな「借景」だから、元々自分がうんうんいって考えだしたモンぢゃないから、「もうこれは古い」の一言で180度ひっくりがえろうとも、へでもない。三島由紀夫みたく思い詰める奴はそうそういない。ジツゾンなんか所詮「感情」の問題ってことで処理して、いとも簡単にくるくると時流に合わせていかようにも「転向」出来ちゃうんだもんね。床の間の掛け軸を取り換えればいーのハナシ。しかも自分は枠=構造だってことにしとけば。思考すること=〈個〉を無しで済ませるラク(責任回避)、カラッポになる自由ってことはそゆことだったりも、するかな。
しかし、オタクの中でいったい何人がそゆ突抜け方が出来てると、いえるのだろうか…。