4畳半観賞の伝統

「日本は芸術はないが芸能の裾野はものすごく広い」というのは土佐信道明和電機だが、「芸事」には現代も通じる「日本的感性」の神髄がつまってる。もともと「日本美術」という「枠」は明治政府が、西欧(ウイーン万博)に向かって「日本」を宣伝する為にフェノロサ岡倉天心等の役人の都合によってでっちあげられたものでありそのシコリを引きずって異常に貶められたり崇められたりしてきたが、それと作品自体が持つ本質とはなんら関係ナイ。「ナショナリズム/反ナショナリズム」という特殊な世界を他者に押付ける「文化=政治」な視点が、その政治的立場に都合よく利用して作品評価を歪めるのである。
西欧が二項の両極をもった左右対称な世界観を基調とするなら、和様構造は「天地人」という三項での世界観を取る。二項(対幻想)は「均衡」という静的調和を図ろうとするのに対し、三項は動的調和を取る。その三項の名は、文字通り「天・地・人」という布石をとるのだが、造園(石組)や立花で「真・副・体」「真・流・受」等、流派によって色々な呼び方がされてる模様。この強みは、その三項要素の中に四つでも五つでも次々と要素を足していけるバリエーションの可能性を含んでいる。この三項調和の源流となった二項での非対立調和は「破調」とされた。
さて、そんな大和絵日本画)をどうやって見るかといえば、観賞者はその符丁解体のプロセスを解読にふける。なにしろ主題=コンセプトは、「花鳥風月」の組合せってすでにお約束済みだから、今更あだこだ考える必要ナシ。ま、要は「文脈読み」ってことか。
そーんな作法は、メジャーなものでは「茶事」に現れてる。あの儀式空間ではすべてがシンボライズ=符丁化されている。そもそも茶室の造形「書院造」これはデータベースパーツからなる建物。お迎えを無言で受けてホトホトとお庭拝見しつつ露地を通り、茶室に入りちゃんとご挨拶。掛け軸で本日の茶会のお題がほのめかされてたりして、ひとくさり。で、あーだか(省略)こーだかした後、「お道具拝見」てのがやってくる。その「拝見」ってのはただ眺めるダケぢゃなくって、使った茶事道具を片っ端から手にとって見て、こりゃあちとデカイ耳カキだホジホジ…ぢゃなくて、それにまつわる蘊蓄応答する。
そぉんなお高尚なやり取りの為の蘊蓄リソースてのも『利休茶話』とかの話題データベース化されて(「造園」「立花」「陶芸」「懐石」「書」「詩歌」等、茶事で扱われる芸事別にもある)沢山ある。そんな中から適当にチョイスして当日のお題にからめてソツなく符丁ダベリング。別に議論する訳ではない、予定調和なネタを上品にころがす高尚な通人の床屋談義ってとこか。あ、いや、茶事なんだから茶呑み話になるのか。ま、上品&洗練というには程遠いが、やってることは…う〜ん、くりいむしちゅーの上田…ぢゃなくって、オタク達の交流と似て蝶