命題

ワタクシは、「ナショナリズムグローバリズムか」ちう議論には、ほとんど意義を見いだせない。したからそれに付随する思想&政治運動にはいっさいの自己価値は置かない。しかしワタクシはそういう言説を繰出す人々のふるまいには関心を持たざるを得ない。なぜなら、その自説成立の為にワタクシなんぞに向かっても影響力を誇示&行使しようとするからだ。
そういうところに自意識のある人たちは、自分たちの議論に沿う敵/味方という2極をもったライン上でしか物事を考えないからである。そしてそのライン上からそれた大多数の人々を自己論理上「無き者」として扱うからである。そしてワタクシはその「ナショナリズムvsグローバリズム」な保守vs革新ライン上にとっては、大抵「無き者」、たまーに頭数が欲しいときダケ都合よく「敵」&「味方」ってことにされる。「正義vs民主」でも、それは同じことになってる。
で、なおかつ大抵そゆひとは、「いらち」である。自説をYes/Noかハッキリ返答しろとせまり、Yes/Noかが解れば、あとのヨタは、もう聞く耳もたないのが常である。特に「No!Bat...」といった日にゃあ…。「いらち」には、じっくりとしたハナシちうモンが出来ないのである。だもんで、「お手続き」だの「前提」だのをアレコレ繰出す老獪なネリ腰にいつも都合の良い様に誘導され巻かれてしまう。それは解ってるモンで、なおさら他者の言うことは聞く必要がナイことにしてる。
ナショナリティでもアイデンティティでも信仰でも思想でもなんでも「帰属意識」は、それがどれ程強固なものでも幻想にすぎなくて、それは単に個々の事情である。そういう意味において、誰を強者とし誰を弱者とするのかも同じである。ひとつの体系やモデルに現象の全てをハメこむことととらえ、入ってくる新しい情報を防衛機能ですべてオミットし、どんなことをしても体系維持に万策を尽すってことしかないからさあ、この価値観には。
しかしそういう「強弱」に於て現状を不平等社会であると考え、「平等であるできだ」という思想をもつものがそれに対してまったく無抵抗に平等という固有の方法論で固められその中で言動しているかぎり、平等=自分と他者は交換可能な存在ということそのものが実は、単一自我=ピュア=平板な自分に耐えられない全てに於て全人格を互いにフル露出交換することで軋轢を生む。そしてそれこそが「不」ナントカだの「反」ナントカだの「非」ナントカという果てしのないゼロサムゲームなんであり、そこからのがれようとすれば、かけがえのないアタシなる幻想にとびつこうとする。がしかし、想定のしょっぱなから否定するソレ=実在の個人がある限り、そこを離れたホントの価値自由、「多様性」というものが理解もできなければ創造もできない矛盾であるのに、そこはいつもスルーされる。で、それをもって「普遍」だとされるウソがまかり通る。