「AならB」のあやうさ

北田本に拠るとリベラルとは「ある程度の道理性(他者の痛みへの共感能力)と合理性(長期的利益に配慮する傾向性)を備え持った主体」と定義してる。しかし、基本的に忖度傾向の強い日本社会では、これって「正義」思想という掲げる看板が違うだけでその内実は殆ど〈村〉社会と同義にみえる。
また、「他者の痛みへの共感能力」というのが、共感できやすい痛みを持つ他者の選択=自己立場の合理性に合致する制度内の他者への過剰配慮ということにしばしば陥りやすく、その「痛み」道徳をもってして、恣意的立場の行為責任の全面解除→立場全体の神聖不可侵化(多視点考察の排除)という自動装置になってやしないか。
今回のような、前例がなく事実確認があまりにも制限されている非常事態では、その少ない事実をプラグマティックに処理していく他はないのにもかかわらず、イデオロギー的感性全開にして、道理性をもってして少ない事実の補完として、その補完の補完の末、考察バランスを欠き現実から浮き上がってしまった人が少なからずいたのではないであろうか。自衛隊撤退という政治的主張イデオロギーを「人道」という道義的解決策=モラルとして全面に押しだした時、リベラルのイデオロギーモラルを共有しない従来忖度社会モラルはそれは容認できない。にもかかわらずリベラルイデオロギー一色(=第三者の不在)で人質救出運動が展開された為、〈村〉対〈村〉の全面戦争になってしまった。
「正論」=モラルに頼り過ぎて、モラル信奉制度外の他者へのリテラシーを疎かにした「内輪の議論」は、人質開放の手柄は我にあり=従って我は正しい合戦は、続いている。政治論争も自己責任論争も全面肯定か全面否定かしか選択肢しかない(=二者関係&排除)かのように単純化するのは、あまりにもおかしいし、為にする論争にしかみえない。そんな状態では強い政治思想/信念への帰属意識をもつ「ショー・ザ・フラッグ」可能な人でないかぎり、二者択一を迫る論争へは〈個〉別発言不能(自主的退却=論争からの排除)に至る。その争いが続く限り、その一番の被害者は、二者択一的立場双方に支配され徹頭徹尾利用された人質&家族だと考える。
そういう性質が、バッシングなどから〈個〉を切離し問題解決に向けて公平に議論を裁いていくのは立場順守上無理があったんだなーっと、、ワタクシでも納得できる論理内容を普段お書きになってるリベラル派と推察するお歴々が、今回、次々と迷走していった言及をみて、言葉の威力=暴力というのには「知識人」でさえも(というか言語に全幅の信頼をよせる者だからこそ言説の厳密さを追求するあまりに)自縄自縛するんだなと、つくづくと。
無論これは、なにもリベラルにかぎったことではなく、誰でもが陥ってしまう可能性のあることでもある。非常事態には、慣性的自己立場(特に政治的主張)からできうるだけ離れるってことが、その上でどう対処するかサラ地で考えるということが重要ではないだろうか。


※注:結果的に納得が出来ないという結論ではあるが、これはワタククシが社会学問的文脈やリベラルという思想共同体の制度外の他者であったからであろう。といって『責任と正義』本そのものを否定するつもりはない。リベラル枠をめぐる社会学問的文脈についての組立方法が丁寧に説かれている中、はっきりいって学問的無知な者でもアサッテな方向にいかないで最後まで読み通せたのは、一重に著者の記述方法に於けるさまざまな配慮のたまものである。○○を参照せよ的な一定知識ナキ者を退けるかのような制度外他者が読むこと自体を排除する論文が多いなか、これはおおいに好感をもった。