責任=応答可能性

私/個と、公:世間/社会をどうとらえるか。

1. 忖度〈村〉社会:〈公〉世間=モラル(道徳/信仰)=〈私〉
世間とそれを代行する家父長ヒエラルキーが〈私〉の面倒を「人格丸ごと」引受ける同調集団での安全を志向するので、社会に対峙するというカタチをとる序列外の〈個〉は排除される。「AならばB」と「モラル」=世間的価値を忖度して決定順守され〈私〉の選択自由も社会的責任もない。〈私〉は、「モラル」を忖度した道義的責任というモラルへの無限責任を負う。(〈個〉にすれば、負わされる感)

2. 民主主義社会:〈公〉社会=ルール(法律/契約)=〈個〉
n〈個〉の合意により「ルール」を取り決めた多様共同体で安全を志向し、〈私〉は〈個〉の「プライバシー」エリアにとどまる。ルールを変える選択の自由はルール(法律)の中に担保される。〈個〉は、選択の自由と共に行為責任としての社会的責任は、あらかじめ成文化されたルール内においてのみ、有限責任を負う。〈私〉的エリアは問われない。

「日本国」的には民主主義社会で法治国家だろうが、実際の生活身体は忖度社会にどっぷりつかっているというのが、個々人の在り方であろう。

自己責任論でいえば、「法治国家」は、法律明記されてるとおり国民の生命&財産を守るのが政府の責務で、国民は法律を順守する義務があり、同時に個人の思想信条・言動の自由/プライバシー保護は権利として保証されている。コンフリクトがおきた場合、法律範囲内で問題結果責任は問われる。
成立済の法律範囲内でしか国民の義務は問えないのに「救出費用負担」を政府&議員が発言する。必ずしも動機=〈私〉は結果=〈公〉への行為を正当化しないにもかかわらず、動機の正当性をもってして行為責任を不問にしようとする。そんな、それぞれが自説に都合のいい立場を「私/個と、公:世間/社会」でチョイスし、相手を都合の悪い立場に追い込んで「正論」=自己正当性を立証しているというカタチがかいま見える。
デモクラシーという社会形態を視点とすれば、「正義」=善悪というのはモラル(思想信条)に準ずるハナシであり、公的「責任」というところダケはルール(法律)に準ずるハナシである。