プロトコル

モラル=価値観の違いからくる感情の齟齬を、それぞれ「解ってくれない!」「慮れ!」とモラル戦争して、全てひとつの価値観「精神論」=肥大する感情論ダケで把握処理しようとしてやまないから、多様性がなくって〈個〉が存在できる中間領域が確保できなくて、ひたすら息ぐるしーんだもん。遂行的矛盾そのもの。
公私の間で、繋げるものと繋げないものの区別を、〈公〉がジャッジして付与するいっぽうでなく、〈私〉がエッジを立てて、その表出を決定するということ=自己投企する責任主体=〈個〉がないかぎり、表現の自由は守られないだろうし、ひいては創作の自由もないのでは。そのライン上での著作製作者への個別利益分配も在りうる。著作製作者に作品同様の高尚なモラルやファンタジー全体主義的に見るのは享受者の解釈(ファンタジー)の自由だが、個別の創作者自身はイリュージョン世界ダケに閉じ込められて生きてく訳にはいかない。
価値観は自己プライオリティとしても、他者&社会との対面を考えた時には、ホットなものを伴いがちのモラルとは別のクールな合理的ルールで整合性を求めたほうがはるかにストレスが少ないとおもうんだけどね〜。