ガッコ頭

カミオカンテの親分、小柴昌俊曰く、人間がものごとを達成する総合的な能力は受動的能力と能動的能力の掛け算で決まる。「受動的能力」とは教授(先生)のいうことを理解して吸収する力で、「能動的能力」とは自分で何を、どうやるのかを自分から働きかける力であると。
情報は、ただただ単に数多く覚えればいいモンぢゃあなくて、そこになんらかの意味と目的をつけるからこそ初めて全てが活きてくる。学校ではあらかじめその意味&目的がつけられたものを段階的に提示される方式だから、「受動的能力」ダケひたすらスキルアップすりゃあなんとかなる。
しかし、いざ、社会に出て働く(ゼニもうけということではない)ということは、自分の知らないことを自発的に学び、出来ないことを可能にしていくという能動的姿勢である。決して、自分の手持ちの知識や技量や人脈や金がタンとあることがシゴトの出来る実務能力ではない。それは全て能動的能力の後からついてくるものなのである。
成程どうやら「学習」というのは2通りあるようで、1つは情報をコレクションして、「既存価値」外部をバームクーヘン化させること。学校の勉強にみられるようなことであり、それによって自身/世間/社会の根本的価値が変わることはない。2つ目は、「既存価値」の中に情報を放り込んで、価値そのものを再構成させること。外部への刃となるが同時に自身へも外部と同時に試されジャッジされ、批判/断罪される可能性を担保する。…ということになるかな。
山程小難しい本を読破して要約しても、それは全てその著者の思考であって、それで自分がナニをドウ思考してるのか自己判断しつづけないと、それは思考停止なんだよな。大体、学校や会社といった目的集団というところは、どのようにその建前を標榜しようとも、異質は常に自動的正統的に隠蔽され、最も異質な他者のいないところである。そういうところばっかりにどっぷり浸かってると、いつまでたっても「能動的能力」は付かないってことか。