迷い

路上で道を聞かれる場合がワタクシなんだかよくあるんだけど、知りあいにも方向音痴なひとは結構いて、例の『話を聞かない男、地図の読めない女』のごとく皆女性などでは無論なく、論理的といわれるハヤリの左脳型行動のひとも、逆に感覚的といわれる右脳型行動のひとも、確実にいる。おなじ道を示すにも「次の角を左に曲がって…」という説明で納得するひとや、地図を書いたほうが解りやすいという、その両方がいる。
『人はなぜ道に迷うか』という本に拠れば、迷うとは、外界の鳥瞰をうまくイメージ出来ず、自分の居場所を定位することに失敗した状態であるという。地図を見ている時は「外の目」で見るということをし風景を想像し、それを「内の目」でさらに自分の現状と照らし合わせて見るという2つの作業が、現在位置の同定ということに対して行なわれる。地図上の想像(土地の絶対座標)=客観と、実際の風景(人間の相対座標)=主観が一致すれば、そこで自己同定が出来たということになり、いくべきコースからズレているか否か確認でき、「迷う」ということはない。地図をみて全体のイメージの絵を書くことができ、それを今いる自分の位置をそこに落としこんで、さて進退をどうするかを逐次判断処理していくということだ。「迷う」行為は、一度固定してしまった定位がなかなか補正しにくい強固なものであり、いくら地図の知識があっても、思い込みで全く役にたたない見方をして慣性が勝ってる状態である。地図を読む行為は、右脳or左脳や主観or客観どっちかではなく、その両方をつかう情報処理なんである。中心視と周辺視の視点の移動が自在であるかないなかで、図と地がひっくりかえるのはルビンの壷などの錯視図で明らかである。
本は、デッサン行為にちらちらふれているが、確かに手の感覚の訓練というより、第一義目の訓練とものや部位のかくある位置構造を理解して初めて絵が書けるんでろうなぁ。そーすると、ポイントは、視点の移動(多視点)と、その統合にあるかな?