ぱど厨

ぱど厨に注目が集まってるが、結局は「日記/掲示板/チャット」の混合体でしかないのではないかな。ケータイMLのネット版か。上記した通り、大人でさえ継続した他者の目に耐えられる「コンテンツ」なんか難しいのに、小中学生にソレを期待し、他者を意識してないと驚愕するほうがどうかしてる。
また、ぱどタウンにたむろしてる「女の子文化」として、そのふるまいをジェンダーカテゴライズするむきがあるが、それは違うであろう。
風野センセは、「はしご」「素通り禁止」を「驚愕の掟」とおおげさに表現なされているが、これも極めて旧来保守的なリアル共同体の掟そのものを持ち込んだにすぎないであろうに、ネット暦が長い者程、理念的ネチケットがモラル自明化してるせいではなかろうか。
しかし既存ネット上でみてもid:bmp:20040617#1087475362さんが指摘されてる「〜経由」リンク(引用)記述、相互リンク/リンク許可制や、www原理主義儀礼的無関心問題等、ネチケットのモラル強化によるネット文化の特殊化に拠る(既得権益)差別階層化ということはありはしないであろうか。
去年、儀礼的無関心ということが話題になった時カキコしたが、共同体の中の何重かの入れ子式の(「隔離」ではない)中において、一方的な外部スルーが出来にくくなる方式というのが、ソーシャル・ネット・ワーキングだったり「素通り禁止」だったりしてるのではないだろうか。
id:svnseeds:20040616では、「はしご」を「貴族/政治家/ヤクザ的」=コネ文化と指摘なされてるが、「情報独占」で差益を生む既得権益が人脈序列の意義で、それがフツーと身体化してるからこそ、「あいさつがナイ」だの「空気読め」だの「オレの意図を無視した」と泡立つコンフリクトって、もうウンザリする程リアル社会で勃発してるものね。
でー、「旧弊リアル仕儀をネットに持ち込むな!」って理想主義、「ネチケットリテラシー啓蒙運動」が正論として声を大にしていわれるのも解りはする、が、しかし。問題の本質はソコでなくって、リアルでもネットでも「囲い込みによる共同体」ってのの持つ排他性を何処迄許容しあうかってこと=多様性の保持になってるのではないだろうか。id:hizzz:20031209#p4 多様性というのは、自分がハブにされる排他も有りの多様、そしてそこから着脱自由なメタ自分であって、自分達と違うふるまいに過度に敏感になり異常視するさまは、実はリアル社会の同質同根理念をもって良しとする、多様を認めない排他、自己承認される関係性をひたすら確認出来ないと不安になるさまと同じなんだよなぁ。違うことが不安のタネという訳か。あぁ、活き苦しいことこの上ない。

13歳になってみた35歳
http://pasoru.under.jp/13.html
15歳以下のネットユーザー、親より詳しい43%
http://www.bizmarketing.ne.jp/trd/040610677.shtml


※追補
児童心理学に於けるエリクソンの発達段階では、第2次性徴前後の思春期〜青年期は、それまでの幼児的全能vs劣等感から進んで、自我同一性獲得vs自我同一性拡散と捉えている。これはどういうことかといえば、自我の芽生えによって、自他の区別をつけようとする能動とそこからの分離不安というストッパーが出てくる。そこで自我同一性を手近な密接な関係によって確認しつつ不安を排除しようという、自律への初動段階としての親密と排他であって、その為に幼児的な大人の承認&保護を得る上下関係から、より水平な「特定のなかま=同質者」という関係性で自己確認をしようとする。「他者性」がナイというより、むしろ他者性を意識しだすからこその、自己客体化意識が芽生えて自他の格差(優越/劣等感)が表面化しコンフクリトしやすくなることかと、推察する。
そうした関係性の確認事項として、なかま内ルール=儀式化の頑なな維持というのは、小学生の「ごっこ遊び」の様々な限定ルールに始まって、体育会系掟、先輩後輩ルール、裏校則、ファンクラブの掟等、性別問わず様々なカタチで自発的に作られている。ぱど等の一見大人が見れば奇異に思えるルール厳守もそういうものの延長線にすぎないのではないだろうか。
また、そうした「仲間内ダケの物語の共有による結束」というのは、稟議&根回しというカタチで大人社会でも公然と営まれているものである。その渦中にいる大人は自分の儀式化された「仲間内ダケの物語の共有による結束」を、マジョリティの公然モラルとしているから、そこからハズれた子供や女性の「仲間内ダケの物語の共有による結束」方法の違いを、特別視してしまいがちなのである。
親密or排除というそゆ極端なやり方を通して、自他の程々の距離というものを、失敗をかさねて実地習得していくのが小〜中〜高校位の青年期というものではないだろうか。もっともソコで止まって自我同一性拡散しまくってる成人DQNはネット上でも、ウンザリする程観察出来るんだけど(苦笑)。
で、その際の優劣戦争に使われるモノサシが、旧来大人社会がもっているジェンダーだったり貧富だったりする差別侮蔑が、大人ぶる優越感と共にロコツに引き継がれることが多々ある。当事者の性別だの表層で安易に「女の子文化」などとラベリングし特殊化すると、かえってその行動の把握を困難にしてしまうと危惧する。
勿論、子供の自生的秩序に期待するといったことも大切ではあるが、やはり行き過ぎを察知して適時カットするのは大人の役目である。中学生の「山形マット死いじめ事件」では、大人と子供が同じ価値観を共有し加害者に共振する地域住民が、事件後、被害者家族をセカンド・バッシングする事例(典型的な第三者の不在)が報告されている。

いじめ・全能感・世間
http://web.archive.org/web/20011222161213/park.itc.u-tokyo.ac.jp/kiss-sr/~naito/newpage5.htm