連帯

凶悪/集団犯罪等の犯罪被害救済問題に取り組む犯罪被害者家族が報道され始めてからこっち、「家族」という関係性の強調が異様にクローズアップされてきた。確かに事件当事者(被害者)が死亡または行方不明である場合、近親者が被害者に成り代わって代弁するということも有りであろうし、ダメージは時には被害当事者以上に辛いものがあるであろう。だがしかし、それを何回もメディア等に記者会見を開き激情ばかりフレーミングされると、また別の問題(=物語)を引き起こす。加害当事者家族へのバッシングである。そして弱い当事者ならば、その関係性の渦の中で埋没する。関係性の連鎖は何処まで人をしばるのであろうか。
北朝鮮拉致家族、田中長女の週刊文春差し止め事件、オウム判決、松本二女の大学入学取消事件、イラク人質家族バッシング。。。
家族なら一蓮托生、共同体のいうことに従うのが筋、一族の罪は連帯責任。イデオロギーの左右はあれども、いずれも世間vs家族≒共同体⊃個人という構図。国家や体制に反撃したとて家族共同体封建社会は、お涙ちょうだいをも使って、かくも〈個〉を囲い込もうとする。うげ〜。
地縁血縁など同質に拠る安心は、果してそんなに確かなものなのであろうか。共感をいいつのりその皮膚感覚/脊髄反射を手掛かりに繋がろうとすればするほどに、その裏かえしの反感があらゆるトコで噴出し断線をこしらえているのではないか。そんなやみくもな怒号に沈黙させられ隷属を強いられる個人。はたしてそれが幸いな状態なのであろうか。〈個〉の自律というのは、ないのであろうか。