過剰配慮

小松美彦『自己決定権は幻想である』で、オランダなどの安楽死自己決定は、ナチス・ドイツの国家規模の優生政策の悪夢につながるとし、自己決定が権利化すると権力の道具になるとして、自己決定権を認めない。安楽死が本人だけの問題だとは誰も言えないだろうし、本人だけの問題ではない以上、本人だけで決めるのはおかしいとする。そして自己決定権は他者判断を排除し自閉につながるとしている。「死が個人の所有物であるかのように捉え、…所有物ではないものに個人が決定を下すなんて土台無理な話」なんだそーだ。
自己責任論とかの話題になると必ず出てきて、自己決定の否定に使われる「死」の決定権。しかしこれは極端だ。安楽死決定をもってして全ての自己決定権を無視するのは、乱暴きわまりない全体主義である。第一、「死」は自己決定しよーがしまいが、必ず万人に等しくやってくる唯一の確実な現象なのである。それと、人生に於ける個別選択の不確実な現象を一緒にすることが間違ってる。人生みな同じに推移するならともかく。
これはまさに、上記で延々とカキコしてきた、〈個〉の在り方による、「われわれ」共同体の「感情」にふれる問題にほかならない。だから、安楽死自己決定は「苛烈」に「非人非」に映る。「そうする」という個人意志をどうやって貫徹するかという生き方は、あってしかるものであろうに、「そうする」主体なのではなく「そうなる」客体が、(実は「そうありたい」とおもっているのはほかならぬ自己決定であり恣意的行為には変わりないにもかかわらず)正しい=主体的思想ではなく自然=客観的思想であり、それは人為の及ばぬ天与のこと=異義を唱える余地もない真理といわんばかりに、言説を流布させようとする。そういうカタチをもった「理論」(運命論)ばかり、跋扈する。そうして、その「感情」=「配慮」ばかりが声高に説かれ、それが規範化する。それに異義を唱えることは、人格を疑われる事態に迄いく。
なぜなら、芯になる〈個〉がナイし、認めようとしないから、個人格はありえないことになる。そうすると、あとは、公=われわれ共同体(運命)規範に従う「われ」か、従わない「彼ら」という二元論抗争しか待ってないことになる。そしてその両極のどちらかへ、共同体の安心の為に、個人を強制的にでも隷属させようとする。innnernetなやすらぎ追求は、そのまま外部/他者とのコンフリクトを起こす両義的なものと化している。
id:shiraishi:20040716で、警察の過剰反応の奇妙さと同等にそのようなことを過剰に引受けてしまう側のこれまた奇妙なふるまいが指摘されている。
“スピーク・アウト”表現の自由のために声を上げる
http://www.asiapressnetwork.com/speakout/20040701/index.html
「である」と「べき」について
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20040714#p1


※『自己決定権は幻想である』で切々と書かれる「共同体への郷愁」をもったリベラル?的な良心=情念、個人「自己決定」vs社会「自己決定権」の未分化を、dokushaさんが切り込まている。
http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040717#p1