「われ」と「われわれ」

セミナーなどで自己分析方法としてジョハリの窓がよく用いられているが、小原信は『iモード社会の「われとわれわれ」―情報倫理学の試み』で、自己を4つに別けている。

「われ」のありかた
1.他者に見られたくないので、見せない「われ」
2.他者に見てもらいたくて、見せたい「われ」
3.他者には見えるけれど、「われ」には見えない「われ」
4.「われ」にも「他者」にも見えない、気付かないままの「われ」

「われ」=i/Iのアイデンティティは…

1. I-dentity 責任ある自立した主体的な「われ」の意識 →個人
2. We-dentity 「われわれ」の意識 →社会
3. we-dentity 狭い仲間うちでの「われわれ」の意識 →世間
4. i-dentity 3.の「われわれ」と未分化で融解しあっている内輪の「われ」の意識 →あいまいな個人

そんな「われ」と「われわれ」に対して、他者を「they」=「彼ら」とし…

「彼ら」のありかた
1.あこがれる彼ら :タレントや芸能人
2.利用する彼ら  :お上等、安全弁的存在
3.うざったい彼ら :見たくない存在:干渉してくる教師等
4.見えない彼ら  :どうでもいい存在:絶対者、神、歴史上の人物等

iがそのweを利用しながらわれのエゴだけは発揮するが、責任はweにおしつけてweとして生きるしたたかなわれであり、i-we同化するiと、同化できないiがあるが、ふだんはweのなかにかくれている。→Iになりたくないi。iはweのなかにうまくおさまって、「われわれであること」(we-dentity)が「われであること」(i-dentity)として安定しているように見えても、何かあればiはさっさとweから抜け出す。「公」publicは、i-weの外側にある。iをIにしないまま、weのなかにとどめておくことで、日本社会の秩序と平和を維持しょうとする見えない判断を背後に働かせるのが、日本社会の基本構造であると指摘する。
さらに、「われ」のふたつのふるまいを上げ

「あいまいなわれ」i・my-dentity
  さりげなく「われ」主張をぼかしながらの、湾曲な自己表現
連座するわれ」i・we-dentity
  われとわれわれが一体化、集合人格化

iがweになり、weがiになる入れ替わり。相互転換によって両者の境界線なり展回転があいまいになる。i=個々のわれは「責任を負う自己」として自立することがないままうまくかくれつづけていられる。二人称単数のThouと二人称複数のYouがあいまいなそこには仲良しのwe-dentity、突き放すthey-dentityしかなく、人格として向き合う二人称の「汝」Thouがいないとしている。i-we同化する引力と関係ないthey斥力が、「われわれ」(we)と「彼ら」(they)という二極構造をなす二元論を構成。
このような考察から、「インターネット」上であろうとも、狭く身近な仲間とだけ連絡をとりあっている使い方だったり、自分の興味のある情報だけを集め、気にしない情報を入れないままで、心の世界が狭いとなると、後はすべて自分とは無関係な「彼ら」(they)としてはねのけることになり、外部者に対しては無関心のまま排他的になる。いっしょに遊べる相手、おもしろい相手しか相手にしないので、いますでに知っている仲間でも、すでに知っていることにしか目を向けないことになりがちであり、知っていてもおもしろくない人や弱い人にたいするまなざしが欠如しがちになる。また、わかっているつもりの自分自身のことでも、すてに知っていること、できることしかしようとしないので、新しいことに対してはなかなか心を開こうとしない、狭い「われ」の世界→閉じこもりを憂慮し、「インターネット」というものの内実は、innternetではなくinnnernetであると憂慮している。